萩原進氏著「騒動(群馬県農民運動史ノート)」に、「元和三年高崎領の騒動」として下小鳥村の事件が取り上げられています。
その中に、「この事件の裏面について、一説には次のように伝えられている。」として、こんな話が紹介されています。
( )内は、迷道院加筆
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この年、連年の不作でこの地方の農民は年貢も納められず、ひたすら藩の情けある処置にすがる外なかったのであったが、この時の直接支配役人は、従来の上郷受持ち代官に代わって、横瀬郷大夫という悪人物が就任した。
その年の収穫を検査する検見の日になると、そのひどいやり方は常識では考えられない苛重の査定であった。
ことに甚兵衛と藤蔵という二人の(所有する)田の査定はひどかった。
というのは、かねて甚兵衛が下小鳥村名主茂左エ門の甥であり、その娘小夜と許嫁の仲であったからで、郷大夫は不倫にもこの小夜に目をつけて横恋慕していたからであるという。
いよいよ手渡された課税の決定書(仮免状)を見て村人は驚いた。※
到底納めることのできない不当なものだったからである。
これでは暴動を起こすか死ぬかの何れかの道を選ぶ以外になくなった。
十月十七日、命ぜられた年貢納めの日は納める者はなく、二の納め、三の納めにも勿論完納できなかった。
僅か半分位であったという。
(※当時の年貢は、個人ではなく村単位で課せられました。)
責任上、村役人の名主、年寄といった主だった人々は、自分の食い料まで出したが、それでも足りない。
城米が完納できないと、郷大夫は自分の責任になるので、ついに強制徴発を行うこととなった。
郷大夫は名主の家に村民を集めて、年貢の完納方を命じ、名主を泥棒呼ばわりさえしたのである。
その上、村民を「犬畜生め」と呼ぶのであった。
無茶な検見をし、領民の苦しさも知らず、この態度ではもはや我慢できなくなったので、誰いうとなく、直接行動で郷大夫を殺そうと話し合い、その帰途を待伏せて遂に郷大夫とその一行を殺傷してしまった。
村民の中からも死者を出した。
事態の急を知って、高崎城から藩兵を繰り出し、一応この場は鎮定したが、捕えられた関係者の裁判が行われるという翌年一月四日、この日は、村から他村へ行った者も実家に帰る日で、村の家々は正月らしい賑やかさが、それでも一応は漂っていた夜のことである。
高崎藩主松平丹波守の手勢と、安中藩主の水野の手勢は下小鳥村を襲い、銃声を合図に各戸を襲い、泣き叫ぶ家人を片端から殺した。
村の蓮花院の住職も百方手を盡したが及ばず、一夜明けた村は、死屍累々、この世の地獄図絵であった。
しかも屍体は村の西裏に掘られた穴の中に投げ込まれた。
名主茂左エ門は変装してひとまず逃げ、先に隠れた甚兵衛と小夜の所に駆けつけ、一目会った上で、郷倉の中で自殺するつもりであったが、藩兵に発見されて殺されたということである。
この時の人穴を、「切干塚」とか「首塚」と呼んで、子孫は永久に残酷な悪領主の仕打ちを忘れないしるべとした。
その後、供養のために石地蔵が建てられ、後に石碑も建てられたということである。
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この伝承では、登場人物の具体的な名前が何人も出てきて、あたかも講談を聞くかのように情景が浮かびます。
しかし、水野氏が安中藩主に就いたのは、慶安元年(1648)です。
事件のあったという元和三年(1617)の30年後ですので、ちょっと時期が合いません。
事件があったのか無かったのか、どの話が真実なのか、それは神のみぞ知ることかも知れません。
後世の者としてはそのことよりも、人間はどのような状況に置かれると恐ろしいことを仕出かす生き物なのか、よくよく学ぶことの方が大切ではないでしょうか。
これで、下小鳥の「切干塚(首塚)」伝承について、私が入手した資料は全てです。
長い間、この話にお付き合い頂き、ありがとうございました。
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