剣磨石 (ケンズリ イシ) | 剣磨石は権田字滝ノ沢にあります。 昔、竜が昇天する時に、竜の尾剣で石を揉み穿った穴があるといいます。 ※現在その所在は不明です。 |
立石 (タテイシ) | 立石は権田字立石原にあります。柱状の大きな石が立っていることから起こりました。 この石から立石原という地名になりました。 ※よく目立つ石であったため、榛名古道の道しるべの一つになっていたと考えられます。 現在は周囲の樹木が大きくなってしまったため、遠くから見ることができません。 |
「 | 夫婦石は権田字至り沢にあります。大きな石が重なり合っていることから、この名前で呼ばれました。 ※至沢川の河川工事で失われてしまいました。」 |
「権三石」というのは、中央小学校校門の所より30mほど西方の県道端(柳原氏宅上手)にありました。 | |
3mくらいの馬の背形をした巨石でありましたが、県道改修の時に取り除かれてしまい、今はその姿を見る由もありません。 | |
現在「権三石」の上に建っている柳原氏のお宅は、元々「権三石」の下方にあったといいます。 「権三石」は昔の草津街道の端にその巨体を横たえていた訳です。 | |
柳原氏の話によれば、子どもの頃「権三石」は子どもたちの遊び場で、馬の背形の上を滑り台のようにして遊んだとのことでした。 | |
「権三石」の語源については、「権田石」が訛ったものか分かりませんが、柳原氏の説によれば「昔、権三という無宿者がこの石のそばに小屋掛けして住んだので、権三石と呼んだのではないか。」とのことであります。 |
「 | 動石(ユルギイシ)は権田字小倉、原田家の庭にあります。 |
少し力を加えると揺るぐことから動石と呼ばれました。 | |
※ | 石の上に小さい窪みがあり、水を入れて揺すると水がこぼれたといいます。 しかし、関東大震災の頃から動かなくなったそうです。」 |
「 | 腹切り石は中央小学校の対岸の大明神山の断崖下、烏川の左岸にあります。 |
約5mの平たい大石です。表面に馬蹄の跡と刀剣(後世刻んだものか)の跡が窪み形についています。 | |
遠く戦国の昔、大明神山の頂上に城があり、ある時権田城と戦いました。 しかし、善戦むなしく敗れ城将は愛馬にまたがったまま山頂城壁より烏川の大石上に飛び降りました。 | |
そして彼は大石上で切腹して果てたと伝えられています。 | |
大明神山頂には、今も空堀、本丸跡、水路などの遺構が見られます。 |
高崎市指定天然記念物 浅間神社の大カエデ 指定 昭和57年4月1日 所在地 高崎市倉渕町川浦字富士山丙3083 | |
目通り3.1メートル、高さ16メートル、樹齢は境内にある杉の大木が三百七十~八十年くらいのものが多いので、当時に植えられたものとすれば、少なくとも三百五十年はたっていると思われる。 | |
大カエデは由緒ある浅間神社の境内の入口にあり、地上百三十センチメートルの所で三枝に分かれ、バランスよく枝を広げている。 古木の持つ自然に備わった風格よりみても、この種のもの(山モミジ)としては、まれに見る名木である。 | |
根元まわり 3.2メートル 枝はり 東西9.5メートル 南北12.1メートル |
「 | 昔の人は、正月の初参りには必ず『五名石』詣でをしたといいます。 しかし、今では五名石の所在を知っている人も少ないようです。 |
川浦七名石は前回河童の伝説に書きました膳棚石をはじめ、駒形石、腹切り石、いぼ石のようでありますが、未だそれ以外の石は知っておられる方にめぐり逢いません。 | |
私(市川光一氏)が踏査した伝説から書き始めてみたいと思います。」 |
「 | 権田方面から川田橋を渡った左下の田んぼの中に通称『いぼ石』と称する大石があります。 |
前橋の岩神の”飛石”、高崎烏川の”聖石”、松井田の”大石”にも匹敵する大石です。 石の表面には沢山のへこみがあり、上には石宮が鎮座しています。 | |
いぼ石の由来は、この石の表面の窪みに溜まった水を、皮膚にできた疣(イボ)につけると、たちまちに癒えるといわれております。 古老に聞いてみると『わしも小さい時ためしてみたが、霊験あらたかで直ぐに治った』と語っていました。」 |
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【七つ石】 | 【五名石】 |
・鳴石 | ・鳴石 |
・揺ぎ石 | ・動石(ゆるぎいし) |
・ケンズリ石 | ・剣磨石(けんずりいし) |
・立て石 | ・立石 |
・夫婦石(めおといし) | |
・イボ石 | |
・腹切り石 | |
・ゴンゾウ石 |
鳴石 | 大きさ四メートルほどの巨岩で、軽く打つと鐘のような音がするので、鳴石というようになったとか。 |
動石 | 小倉にあり、大きな石であるが、少しの力でもよく揺るぐといいます。 |
剣磨石 | 字滝ノ沢にあり、昔、竜が天に昇るとき、尾剣で石を揉み穿ったという穴があるので、この名がつきました。 |
立石 | 立石原にあり、柱のような大きな岩石で、この名前がついたといいます。 |
夫婦石 | 至沢にある石で、大きな石が二つ重なりあっていることから、この名がついたとか。 |
むかし、塚越下総守と言う人が大明神山に城を築こうとして、川浦の三沢にカラボリを掘りました。しかし、堀の工事が未完成のうちに敵に攻められてしまいました。 | |
下総守はあわてて馬に乗ったまま、大明神山という岩山の砦から飛び下り、切腹して果てました。 | |
その石が今でも烏川河岸にあって、馬のひづめと刀の跡が残っています。 |
「 | 昭和二十年 敗戦という我が国未曽有の事態が諸物資の窮乏を招き 中でも食糧不足は極限に達した 国は食料事情打開策の一環として緊急開拓を国策事業とした |
昭和二十一年十二月二日 吾等十三名はこの地鳴石を墳墓の地と定め勇躍入植し 一致団結理想郷建設のため努力邁進してきた」 |
「 | 当所ハ後ニ牧場トナリ権田栗毛ト称スル名馬ノ産地ナリト云フ、御社モ宏大ニシテ社家等モ数多アリシガ、元亀天正ノ間、武田上杉等戦ノ衢(ク:道)トナリ、兵火ニ罹リテ社殿及家屋等皆消失ス、 |
(略) | |
依之旧記古文書宝物類等悉皆消失シ、一時廃絶ノ形勢ナリシヲ、文禄年中天台修験正福院ノ住職ト村民相議リ、往古大国主命ノ神社在リシ勝地ニ移転ス、此ノ処ニ神体ヲ奉ジ来テ満行大権現ト崇奉、故ニ旧社地ニハ小祀ヲ建立シテ祭祀セシモ、野火ノ為ニ数度焼失、」 |
「 | 上ノ久保から行前川(上ノ久保沢川)に沿って入ると行前という地名がある。 そこは椿名神社がもとあった所で産土山(うぶすなやま)とよんでいる。 |
椿名神社の由緒によれば、元湯彦命(モトユヒコノミコト)が東国を平定したときに、この山の上に立って望見し、不令行(この先は行かず)を出したという。 | |
これがイクマイ→イクマエとなったという伝承がある。」 |
「 | サキニ別当正福院七世了瑱法印ヨリ聞伝フルニ、椿名神社元湯彦尊ハ大古権田村字広町、今ノ御社ノ裏ニテ当時烏川敷ノ向岸辺ニ、大ナル塚アリ。 |
頂上ノ丸キ野石ニ、車ノ郡権田村近田庄川並ノ里、椿名神社元湯彦尊ト幽(かすか)ニ切附アリ。(略) | |
享保ノ頃、烏川ニ(に)三回ノ満水ニテ、最初二回メノ頃、御塚七分通リモ崩破川欠トナリ、其際ヨリ丸キ石出タルコト大ナルハ五〆目位ヨリ百匁位マテ凡五十斗ナリ、追々空シク皆無地トナル。 | |
流失ヨリ直ニ字行前丸小山ノ頂上ニ石ノ宮ヲ建立シ、是ヲ鎮守ト崇メ祭ルコト四十年間ナリ。」 |
「 | 室田町大字榛名山巖山にあり、 |
創立は社傳に據(よ)れば神武・綏靖兩朝の御宇、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の御子・可美眞手命(ウマシマデノミコト)及び孫・彦湯支命父子、東國戡定(かんてい:平定)の任果てゝ榛名山中に薨(こう:死)ぜりと言ひ傳へ、山上に神籬(ひもろぎ:依り代)を立てゝ天神地祇(てんじんちぎ:全ての神々)を祭り、皇孫を壽き奉り、永く東國五穀の豊穣を祈り國家鎮護の靈場なりしといふ。」 |
「 | 塚から出た丸石は氏族の長の墓が神社の起源ともみられる。 |
祭神を元湯彦命としたのは、神社を皇室中心の祭祀とした時代につくり出されたものであろう。 | |
つまり、はじめは氏の長をまつったものであったが、後に国の権力者の統制にしたがって祭神を皇室ゆかりのものに変えた。 | |
さらに下って江戸時代になり榛名神社の名声を慕って、従来の氏神の中に榛名神社の祭神をも分霊合祀したものと考えられる。」 |
「千ガ淵の伝説」 | ||
むかし、水沼のある農家におせんと言うきれいな娘さんがいました。 | ||
この頃の機織りは娘の大切な仕事の一つでした。 しかし、おせんは生まれつきあまり器用ではなかったのです。 近くの農家に嫁にいっても、それだけは苦手でした。 | ||
姑さまは、近所の人びとに「うちの嫁はほんとうに困ったものだ。機織りひとつできない。役に立たない嫁だよ」など小言をいいふらしていました。 | ||
ある時、商人がおせんの家へ反物を買いに来ました。 おせんの織った反物を見ると「これは売り物にはなりませんよ」といって、一反も買ってはくれませんでした。 | ||
姑はこのことを聞いて「こんな嫁は家の恥さらしだ。家の嫁としておくことは出来ない。さっさと出ていっておくれ」と、嫁を追い出してしまいました。 | ||
おせんは仕方なく、身の回りのものを片付けてしょんぼりと家を出ていきました。 しかし、おせんの実家は親も既になく身寄りもありません。 途方にくれたおせんは近くの相間川の淵に飛び込んで死んでしまいました。 村びとは誰いうともなくこの淵を「千ガ淵」と呼ぶようになりました。 | ||
いまでも、夕暮れになると、深くよどんだ淵の中から「ギーパタン、ギーパタン」と、おせんが機を織る音が聞こえてくるということです。 |
戸榛名神社 | ||
祭神 | 埴山姫命 火靈産命 源満行公 | |
由緒 | 人皇四十九代光仁天皇御宇天應年間ノ創建ニテ實ニ千數百年前ノ旧社ナリ | |
往古ハ榛名神社ト称シタリ 延喜式正一位榛名神社 上野神明帳ニ正一位榛名大所明神ト記スモノ則チ本社ナリ |
「 | 勧請年月不詳、上野國神明帳ニ従五位上榛名大所明神ト見エタルハ當社ナルヘシ、 |
大所ハ大戸ノ假字ニシテ、ヤガテ神戸ノ意ナルヘク、村号ヨリ推シテ考ルニ、此ノ地ヲ措テハアラシトトソ思ハル」 |
「 | 此ノ地 元江戸ト書キタルヲ 神戸ノ字ヲ用ヰ」 |
「 | 戸榛名神社には古くから神楽が伝承されていて、昭和九年(1934)、NHKで全国放送されたこともあった。 |
昭和十八年(1943)、神楽装具が盗難に遭い中断を余儀なくさせられたが、昭和三十一年(1956)四月八日の例祭に神楽を復活させ、奉納した。 | |
現在は再び中断している。」 |
「 | 戸春名神社の由緒を知る資料に明治三十五年の調査書がある。 |
これは県が村社を指定するに当り、事前にその神社の由緒を調べたもので、その報告書の写しが明治三十五年の倉田村役場の書類綴の中にあった。 しかしこれは保管がよくなかったため大部分がボロボロで辛うじて判読できる。 | |
この調査書は、字麹屋の戸塚長吉という人が父祖から伝え聞き暗記していたことを別の人が文章になおしたもの・・・」 |
「 | 当社ノ創立ハ景行天皇ノ御宇 東国ノ凶族鎮定ノ為メ日本武尊吾妻ヘ御出征ノ際 国宝☐☐☐神明ヲ祭ラントテ其地況視察ナシテ 此地☐☐覧アリテ是崛強ノ地ナリト 此ニ天祖ノ三神ヲ奉斎シテ 椿名ノ神社ト称シ玉ヒ 此地ヲ椿名ノ荘菫レノ里宮輪ト為シ・・・」 |
「 | 中古戸春名神社トセシハ(外ノ誤リ 外ハ戸ニ通ズルヲ以テカ 戸ハソトハルナノ意カ)星月ヲ逐フテ言伝相誤リシシナランカ」 |
「 | この神社は江戸時代のはじめにはもう確乎たる地位を築いていたものと見え、寛永八年(1631)の水帳に「外榛名前」の田、「宮わき」の畑というように地名がわりに使われている。 |
戸春名というその名前からも、また明治二年戸長が差し出した「社寺堂廟書上帳」に満行大神社と記されていることからしても榛名神社と深い関係があることは明らかである。 | |
この神社も、はじめは三ノ倉地方住民の氏神としてまつられていたが、中世(室町時代ころか?)になって榛名神社の神徳にあやかろうと、氏神に合せて榛名神社の祭神を分霊勧請したものであろう。 | |
このときこれまで無名の氏神は外榛名(戸春名)神社となったと考えられる。」 |
「 | 本社ノ裏ヲ子丑ノ方ニ神穴ト称スルモノアリ 其奥行ノ深キコト幾何ナルヲ知ル能ハズ |
古来ヨリ口碑ニ此神穴ハ遠ク榛名神社本殿ノ裏ニ通ズト」 |
「 | 小栗氏城趾ハ権田村字観世音山上ニ在、前ハ懸崖絶壁、後ハ榛名山麓ナル一帯ノ地ニ連リ、左右ハ夏ナホ寒キ深谷ヲ廻ラシ、天然要害ノ地トイフベキナリ」 |
慶応戊辰(一八六八年)三月一日、小栗上野介忠順は江戸より移り住み、この丘上に居邸を新築し、村の若き人々の育成を計画、眼下の山峡から太政大臣を出してみせるといった。 それは井伊大老の抜擢により、僅か三十四才で、万延元年第一回遣米使節全権の一人となり米国に赴き、近代文化に接し、国会を視察して、将來の新日本建設は封建の垣を超えた若き人々の力に待つことが多い、と観じたからである。 然し、事志と違い滞村六十六日で、雄圖空しく逝いたけれども、この地の若人、否、日本の若人によせた公の期待は大きく、遙かなる浅間かくしの峰に、烏川のせゝらぎに、今猶その声は、私たちに語りかけている。 本日殉難百周忌を迎え、感新たなるものあり、邸跡に碑を建て公追慕のしるしとする。 |
「 | 伝承によれば、(慶応四年/1868)閏四月十七日家財道具・米穀・材木など一切を取り調べ、高崎の商人及び村民にも払い下げた。 |
上棟後間もない未完成の上野介の住まいは、現在の中室田町の「はる」という女性の仲立ちで、持木癸巳二氏が買い入れて自らの住まいとした。 持木氏は、総社町で熊野屋という屋号で、荒物屋を手広く商っていた。 | |
その後明治四十三年(1910)になって、都丸家の先祖が当遺構を持木家から六〇〇円で購入し、当地に移築したものと伝えている。」 |
「 | 栗毛更に舊主の許に還らんと志せるにや、三の倉村字道場谷戸と云へる所まで辿りつき、傷に耐え兼ね逆水(さかみづ:小川の水普通の方向に逆流せる部分)を飲みて遂に斃(たお)る。」 |
「 | 故郷の権田に帰って来たが、すでに生家はなく、土城谷戸までひき通し(還し?)て、枕石のところの清水を呑んでいた。 |
村の小供がみつけた。見ると、腹に巻いた布が血によごれていた。 | |
子供が『はらわたが出ている。』といったところが、馬はバッタリ倒れた。 | |
その枕になった石を枕石という。」 |
「 | 栗毛は、もとの主人に会いたい一心で弱った足を進めたが三ノ倉の土城谷戸という所で力尽き息をひきとった。 |
村人は、栗毛をこの場所に葬り馬頭観音堂を建てて祭った。 | |
現在観音堂は焼けて残っていないが、同所に小さな石のほこらと栗毛が頭を横たえたという枕石が残っている。」 |
「 | 村の人々は栗毛のなきがらを手あつく葬って、そこに馬頭観音堂を建て馬の霊の冥福を祈りました。 |
この堂は焼失してなくなり、今では祠と栗毛が枕にして倒れたという「枕石」があります。」 |
「 | 按ズルニ平家物語ニ熊谷ハ権田栗毛ト云ふ名馬ニゾ乘リタリケル云々、源平盛衰記ニ権田栗毛ト名ヅク云々トアル名馬ハ此ノ地ニ出デシニハアラズ、 熊谷ガ舎人ニ権太ト云フモノアリ、能ク馬ヲ飼フ。 |
直實曰ク馬ハ武士ノ寶ナリ、ヨキ馬ヲ求メテ得サセヨト上品ノ絹二百匹ヲ権太ニ與フ。 | |
権太之ヲモテ陸奥ニ下リ一ノ戸ヨリ逸物ヲ得テ來リ、権太栗毛ト名ヅク云々トアリ」 |
「 | 藤鶴姫ハ箕輪城主長野信濃守業政ノ夫人ニシテ・・・」 |
「 | 箕輪城主長野信濃守業政夫人藤鶴姫は越後上杉家の養女にして、幼名を鶴代姫と稱し長じて藤鶴姫と呼び入りて業政の夫人となれり。」 |
「 | 業盛の妻は年十八歳、城を逃れて農家にひそんでいたところを見つけ出され、甲斐の武田信玄のもとへ連れて行かれたという。 |
また一説にはこの人が高野谷戸で死んだ藤鶴姫その人であるともいう。」 |
「 | また一説には晴信(信玄)、氏業(業盛)の室上杉氏の容色を知り、部下に命じて是れを需め妾たらしめんと欲す。 |
夫人之を知りて民家に隠れ忍ぶ、たまたま晴信の部下之を知りて迫る。 | |
夫人逃れて三の倉村に至り、長野原に赴かんと欲す。 | |
敵の迫る急なるや、到底のがる能はざるを知り遂に自刃して死す。 | |
今尚三の倉村字下郷に長野氏室の墓あり、後世村人この地を称して限り坂と称え長野氏の室の霊を祭れりと。」 |
「 | 箕輪城主長野業政の夫人に藤鶴姫という人がおりました。 |
主君業政は既に病気で亡くなり、その子業盛があとを継いで奮戦しましたが、いよいよ城も危なくなってまいりました。 | |
姫は『業盛どの、私は女とはいえ、今は亡き業政の夫人であります。私もこの城とともにしたい』と頼みました。 | |
『藤鶴姫殿、それはなりません。あなたは、越後の上杉の出、箕輪のものどもが最後の最後までよく戦ったと、越後の上杉につげる人ではありませんか』と、十九歳の若殿からの言葉でありました。 | |
藤鶴姫は、このりん然とした態度に心を打たれ『よくわかりました。業盛どのの命令どおり、りっぱになしとげます」と答えました。』 |
「 | 妙齢十八、芳顔美態、桜桃容を耻ぢ、楊柳姿を嫉む。当時美人の聞あり。」 |
「 | 業盛は、藤鶴姫の警護に佐藤作兵衛信正とお供の家来五騎をつけて脱出させることにしました。 |
姫は身軽な百姓娘に変装しましたが、ただ日頃大事にしていた手鏡一個と、いざという時に使う護身用の懐刀をそっと忍ばせておきました。 | |
七人の者が夜を待って、うまく城の包囲陣をくぐり抜け、室田街道へさしかかった時は、もう夜はしらじらと明けていました。その日は山の中の小屋にひそみ、夜を待って越後をめざして脱出することになりました。 | |
姫の一行が、のぼり坂のはげしい山道を馬で進め、室田を過ぎたころでした。箕輪に進む武田勢の者に出会ってしまいました。 『暗くてわからぬが、何者か。どこへ行くのか・・・』などきびしく尋ねられました。 | |
護衛の信正は、すかさず、 『武田本陣の雑役のものであるが、ここにいる百姓娘の案内で、食料調達にいくものである』と答えたが、姫の様子からは、変装したとはいえどうしても百姓娘には見えない。とうとう、見破られてしまいました。 | |
信正は、とっさに、自らの刀を抜き『ものども討ち取れ』と切りかかっていきました。 不意をつかれた武田勢は、たちまち二、三人倒れましたが、たちまち、立ちなおり巻き返してきました。 | |
信正は姫に近寄り、さっと姫を馬に乗せて、『早く逃げて、後からすぐ追いかける・・・』と馬の尻を叩き倉渕の方面へ走らせました。 | |
姫は馬の鞍にしがみついたまま、無我夢中で走りつづけました。そして、しばらく行くと三ノ倉の高野谷戸あたりの小さなお堂にたどりつきました。 | |
姫はさびしさと行く先の不安におびえて、これ以上進むことは出来ませんでした。 『信正や、お供の家来はどうしたのだろうか』 姫は、ふと歩いてきた道をふりかえると、『おーい、おーい』と人の呼ぶ声がするではありませんか。しかし、日も落ち、姿もよくわかりません。 | |
『あれは、正しく敵の追手ではないか。捕らえられれば、われは女の身・・・それよりは、いさぎよくこの場で自害しよう』と、ふところから、懐刀をとり出して命を絶ってしまいました。 だが、その兵は、藤鶴姫の安否を気づかってきた家来の信正たちだったのです。 | |
信正は姫の無残な姿を見て、『なんと、早まったことを・・・』と全身の力がぬけるようにその場にすくんでしまいました。 | |
信正は、姫の遺体をこの土地の土豪土屋蔵之介に頼み、お堂の墓地に葬ってもらいました。 そして、従者に、姫の遺髪を越後の国に届けさせ、自分はこの土地に落ち着き、墓守りとなりました。 いまでも佐藤家の人達はそれを続けております。高野谷戸の土屋家には、姫の手鏡と轡(くつわ)が残っています。 | |
姫の後をおいかけてきた援兵どもが『おーいおーい』と呼んだ場所は、だれが言うともなく『ひとこえ坂』といい、姫が自害したお堂の坂を『もうこれかぎり』として『かぎり坂』といっています。」 |
「 | 戒定假の名は定惠、金猊園と號す、 |
上野國群馬郡三野倉(三ノ倉)の人、俗姓は永井氏、父の名は逾樹、母は土屋氏の出なり、」 |
「 | 今日、間野、谷ケ沢、上神等には多胡姓を名乗る家が極めて多くひとつの集落をなしている観があり、その他上里見一帯に散在している状態である。 |
この多胡氏の氏神が多胡神社で、祭神は多胡羊太夫である。(略) | |
この事について次のような伝説がある。 多胡家には「多胡羊太夫由来記」という文書が伝えられている。 里見村以外にも多数あり、その内容も必ずしも同じではないので、真偽のほどはこゝに断定できない今、里見村の間野の多胡武正、上神の多胡清所蔵のものによって、この伝説の略述をしよう。」 |
「 | 味方は悉く戦死して、残るは羊太夫主従三騎となる。 もはや最後と見えたその時、羊太夫主従三騎は金色の大きな蝶に化けて山上へ飛び登って行った。 |
これを見た寄せ手の大群は、この機を逃すなとばかり山上めがけて攻め上ってきたので、金色の大蝶は休む暇もなく、今度は三羽の鳶に化けて大空高く舞い上がって、北の方へ飛び去ったのである。 こうして、さしも激戦を交えたこの戦いも、ついに多胡城の落城をもって終りを告げたのである。 | |
しかし、これより一ヵ月程前に、神様のお告げにより、もはや多胡城(落城)も間近いことを知った羊太夫は、嫡子宗顕、孫宗量の両人をひそかに派遣して一族の落ちつき先を定めさせた。 | |
両人は碓氷郡間野の山奥に潜行して、仮屋二軒を作って一族の到着を待ちうけていたのである。 この地は、今日「二ツ屋」と呼んでいる所である。 | |
鳶に化けた主従三人は、勿論こゝへ飛んできて落ちついた。 一ノ鳶、二ノ鳶、三ノ鳶という地名は、この三羽の鳶が飛来して、とまったことを意味するもので、こうして、羊太夫以下多胡一族は間野の山奥に定住したのであるということである。」 |