「飯塚の追分」から、旧三国街道を辿ろうと思いつつ、「続橋」から「幸宮神社」、そして「切干塚(首塚)」へと、随分寄り道してしまいました。
寄り道ついでに、今日はこんなお話を。
改修される前の「首塚」の写真がないかと、当時区長さんとして改修の中心になっておられた梅山太平(たへい)さんをお訪ねしました。
残念ながら、太平さんは病の床に伏しておられ、お会いすることはできませんでしたが、若奥様から一冊の本を頂戴しました。
太平氏が編集委員長となって、10年余りかけて編纂した下小鳥町の「町内誌」です。
高崎の歴史好きな方なら、梅山太平氏と聞くと、すぐ高崎城の「乾櫓(いぬいやぐら)」を思い出すのではないでしょうか。
あの「乾櫓」が梅山太平氏の家に残っていたものだということは、多くの方がご存知だと思います。
このお話は、「民家に残る高崎城」でも、ご紹介しました。
頂戴した「町内誌」の中には、「高崎城乾櫓の顛末」と題して、他の文献にはない興味深い話が出てきます。
明治初年に「乾櫓」の払い下げを受けたのは、当時、高崎領西郷の肝煎名主(きもいりなぬし)・梅山太平とあります。
今いらっしゃる梅山太平氏は大正十二年(1923)生まれですから、その先代ということでしょうか。
実は、梅山家には「乾櫓」だけではなく、「巽櫓(たつみやぐら)」も払い下げられていたようです。
本家には「巽櫓」、分家には「乾櫓」が、それぞれ納屋として使われていたとありますが、「巽櫓」の方は解体されてしまったのでしょうか。
「乾櫓」のあった梅山家は、元は「首塚」の前の北部環状線上にありました。
梅山家の納屋が「乾櫓」と認知されたのは、昭和二十六年(1951)のことですが、昭和四十九年(1974)に群馬県指定重要文化財となります。
ただ、これが梅山家には負担になったのかも知れません。
「乾櫓」の老朽化も進んでおり、梅山家宅が北部環状線の予定地にかかったこともあって、高崎市に寄付することを決めたようです。
寄付を受けた高崎市は、どこへ移築・復元しようか検討をします。
候補に挙がったのは、
①専売高松工場跡地(現・高松中付近)
②北門※テニスコート脇(現・姉妹都市公園付近)
(※陸軍歩兵第十五連隊北門)
③旧・高崎税務署裏(現・市庁舎東南付近)
などでしたが、
最終的に音楽センター脇の現在地になったということです。
昭和五十二年(1979)の落成披露には、高崎藩主大河内家の9代当主輝聴(てるとし)の孫、大河内輝信氏も東京から招かれ出席したそうです。
明治四年(1871)の廃藩置県から、実に108年目のことでした。
さて、寄り道が過ぎました。
次回は旧三国街道を先に進むことにいたしましょう。
寄り道ついでに、今日はこんなお話を。
改修される前の「首塚」の写真がないかと、当時区長さんとして改修の中心になっておられた梅山太平(たへい)さんをお訪ねしました。
残念ながら、太平さんは病の床に伏しておられ、お会いすることはできませんでしたが、若奥様から一冊の本を頂戴しました。
太平氏が編集委員長となって、10年余りかけて編纂した下小鳥町の「町内誌」です。

あの「乾櫓」が梅山太平氏の家に残っていたものだということは、多くの方がご存知だと思います。
このお話は、「民家に残る高崎城」でも、ご紹介しました。
頂戴した「町内誌」の中には、「高崎城乾櫓の顛末」と題して、他の文献にはない興味深い話が出てきます。
明治初年に「乾櫓」の払い下げを受けたのは、当時、高崎領西郷の肝煎名主(きもいりなぬし)・梅山太平とあります。
今いらっしゃる梅山太平氏は大正十二年(1923)生まれですから、その先代ということでしょうか。
実は、梅山家には「乾櫓」だけではなく、「巽櫓(たつみやぐら)」も払い下げられていたようです。
本家には「巽櫓」、分家には「乾櫓」が、それぞれ納屋として使われていたとありますが、「巽櫓」の方は解体されてしまったのでしょうか。
「乾櫓」のあった梅山家は、元は「首塚」の前の北部環状線上にありました。
梅山家の納屋が「乾櫓」と認知されたのは、昭和二十六年(1951)のことですが、昭和四十九年(1974)に群馬県指定重要文化財となります。
ただ、これが梅山家には負担になったのかも知れません。
「乾櫓」の老朽化も進んでおり、梅山家宅が北部環状線の予定地にかかったこともあって、高崎市に寄付することを決めたようです。
寄付を受けた高崎市は、どこへ移築・復元しようか検討をします。

①専売高松工場跡地(現・高松中付近)
②北門※テニスコート脇(現・姉妹都市公園付近)
(※陸軍歩兵第十五連隊北門)

などでしたが、
最終的に音楽センター脇の現在地になったということです。
昭和五十二年(1979)の落成披露には、高崎藩主大河内家の9代当主輝聴(てるとし)の孫、大河内輝信氏も東京から招かれ出席したそうです。
明治四年(1871)の廃藩置県から、実に108年目のことでした。
さて、寄り道が過ぎました。
次回は旧三国街道を先に進むことにいたしましょう。