「魚仲別館」の流れで、九蔵町の「魚仲本館」のことも少し書いておきたいと思います。
「魚仲」のHPによれば、明治十四年(1881)高崎絹市場で昼飯屋を始めたのが「魚仲」の始まりだそうです。
始めたのは羽鳥仲蔵(なかぞう)、安政七年(1860)生まれの二十一歳でした。
しかし、「商工たかさき 1993/4」では、「創業は明治三十年(1897)頃と伝えられ、もともと川魚を扱っていたことから『うおなか』の屋号に」したとなっています。
昭和八年版「帝国信用録」にも、開業年月は明治三十年とありますので、九蔵町の「魚仲」がこの年に開業したということなのでしょう。
明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」には、九蔵町の現在地に「料理店 羽鳥仲蔵」と記載されています。
初代の仲蔵は大正五年(1916)に56歳で他界し、明治十六年(1883)生まれの二代目仲蔵が跡を継ぎます。
二代目仲蔵は大正十五年(1926)には高崎の甲種料理店組合長となり、市会議員や商業会議員も勤めるなど幅広く活躍しています。
昭和四年(1929)発行の高崎案内本「高崎」に、当時の店舗の写真が載っています。
上並榎の「魚仲別館」は二代目仲蔵が開業した訳です。
仲蔵と、三代目となる実弟の定八(さだはち)が「魚仲別館」の入口に並んで写っているのが、この絵葉書です。
向かって左が仲蔵、右が定八です。
二人が盛り立ててきた「魚仲別館」ですが、戦争の影響で店を閉じざるを得なくなり、昭和二十一年(1946)には江木町にあった「榛名産業」の手に渡ります。
二代目仲蔵は昭和三十五年(1960)77歳で他界しますが、定八もその二年後の昭和三十七年(1962)58歳の若さで亡くなってしまいます。
そして、四代目店主となったのは定八の長男・順です。
順は昭和四十二年(1967)頃「魚仲」の店舗をリニューアルします。
しかし、順もまた平成三年(1991)60歳という若さで帰らぬ人となります。
順は昭和四十九年(1974)に、当時29歳だった修司氏を養子に迎えており、修司氏が五代目を継ぎます。
そして現在の六代目店主が、修司氏のご令嬢・友子さんです。
以上が、迷道院が読みかじり、聞きかじりした、老舗料亭「魚仲」の概略144年史でした。
そうそう、上並榎の「魚仲別館」から移した石灯籠のことを忘れそうでした。
これが「別館」の池です。
手前の石灯籠と、分かりにくいですがその右後ろに五重塔があります。
こちらが、「本館」の中庭に移された石灯籠と五重塔です。
会長からは、池に関する面白い話をお聞きしました。
「別館」の池の水は長野堰から取水しているのですが、田植えの時期になると取水できなくなって、池は干上がってしまうんだそうです。
そこで、その前に池の鯉を全部「本館」の風呂に移すんだとか。
そして再び取水できるようになると、「別館」の池に戻すというのが、年中行事になっていたらしいです。
風呂を鯉に占領されている間、人間は銭湯にでも行ってたんでしょうかね。
たしか、筋向いに「神明湯」という銭湯があったように思います。
もっとも私が記憶してるんだから、戦後だいぶ経ってからの話ですけどね。
修司さん、友子さん、貴重なお時間を割いてお話を聞かせて頂き、大変、ありがとうございました。
高崎の老舗の灯が、いついつまでも灯り続きますよう、お祈り申し上げます。
「魚仲」のHPによれば、明治十四年(1881)高崎絹市場で昼飯屋を始めたのが「魚仲」の始まりだそうです。
始めたのは羽鳥仲蔵(なかぞう)、安政七年(1860)生まれの二十一歳でした。
しかし、「商工たかさき 1993/4」では、「創業は明治三十年(1897)頃と伝えられ、もともと川魚を扱っていたことから『うおなか』の屋号に」したとなっています。
昭和八年版「帝国信用録」にも、開業年月は明治三十年とありますので、九蔵町の「魚仲」がこの年に開業したということなのでしょう。
明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」には、九蔵町の現在地に「料理店 羽鳥仲蔵」と記載されています。
初代の仲蔵は大正五年(1916)に56歳で他界し、明治十六年(1883)生まれの二代目仲蔵が跡を継ぎます。
二代目仲蔵は大正十五年(1926)には高崎の甲種料理店組合長となり、市会議員や商業会議員も勤めるなど幅広く活躍しています。
昭和四年(1929)発行の高崎案内本「高崎」に、当時の店舗の写真が載っています。
上並榎の「魚仲別館」は二代目仲蔵が開業した訳です。
仲蔵と、三代目となる実弟の定八(さだはち)が「魚仲別館」の入口に並んで写っているのが、この絵葉書です。
向かって左が仲蔵、右が定八です。
二人が盛り立ててきた「魚仲別館」ですが、戦争の影響で店を閉じざるを得なくなり、昭和二十一年(1946)には江木町にあった「榛名産業」の手に渡ります。
二代目仲蔵は昭和三十五年(1960)77歳で他界しますが、定八もその二年後の昭和三十七年(1962)58歳の若さで亡くなってしまいます。
そして、四代目店主となったのは定八の長男・順です。
順は昭和四十二年(1967)頃「魚仲」の店舗をリニューアルします。
しかし、順もまた平成三年(1991)60歳という若さで帰らぬ人となります。
順は昭和四十九年(1974)に、当時29歳だった修司氏を養子に迎えており、修司氏が五代目を継ぎます。
そして現在の六代目店主が、修司氏のご令嬢・友子さんです。
以上が、迷道院が読みかじり、聞きかじりした、老舗料亭「魚仲」の概略144年史でした。
そうそう、上並榎の「魚仲別館」から移した石灯籠のことを忘れそうでした。
これが「別館」の池です。
手前の石灯籠と、分かりにくいですがその右後ろに五重塔があります。
こちらが、「本館」の中庭に移された石灯籠と五重塔です。
会長からは、池に関する面白い話をお聞きしました。
「別館」の池の水は長野堰から取水しているのですが、田植えの時期になると取水できなくなって、池は干上がってしまうんだそうです。
そこで、その前に池の鯉を全部「本館」の風呂に移すんだとか。
そして再び取水できるようになると、「別館」の池に戻すというのが、年中行事になっていたらしいです。
風呂を鯉に占領されている間、人間は銭湯にでも行ってたんでしょうかね。
たしか、筋向いに「神明湯」という銭湯があったように思います。
もっとも私が記憶してるんだから、戦後だいぶ経ってからの話ですけどね。
修司さん、友子さん、貴重なお時間を割いてお話を聞かせて頂き、大変、ありがとうございました。
高崎の老舗の灯が、いついつまでも灯り続きますよう、お祈り申し上げます。
【魚仲】