「雁城(かりがねじょう)」という美しい呼び名を持っているお城が、むかし倉賀野にあった。
「井戸八幡」から200mほど西へ行ったところにある「雁(かりがね)児童公園」が、、「倉賀野城」別名「雁城」の本丸跡である。
大きな城址碑と、城の歴史を記した石碑がなければ、それとは分からぬほど小さな公園である。
他県にも「雁城」と呼ばれた城はあるようだが、その名の謂れについてはよく分からない。
ただ「倉賀野城」の場合は、城主・倉賀野氏の家紋が、「対い雁(むかい・かりがね)」だというので、たぶんそれが由来ではないかと思われる。
この家紋、ちょっと見ると蝙蝠(こうもり)のようだが、正解は鳥の雁(かり)が向かい合っている図柄である。
戦国時代の「倉賀野城」は、当初、上杉家に属していたが、後に宿敵の武田家に属することとなる。
その家紋が、「雁」という渡り鳥とは、少々皮肉な話である。
高崎市文化財調査委員で古城塁研究家の、山崎一氏が書き残してくれた「倉賀野城址」図がある。
昭和44年(1969)当時の道路と重ね合わせてあるので、どの辺りにあったのか見当がつく。
この図を見ると、「牛街道」や「太鼓橋」下の道が、「倉賀野城」の堀の跡だということがよく分かる。
旧中山道も、今より一本北の道だったというから、やはり遠堀を埋めて道にしたのだろう。
倉賀野氏がここに館を構えたのは治承年間というから、平清盛と源頼朝が戦っていた1177年~1184年だ。
「倉賀野河岸」の開設は永禄四年(1561)、川中島で上杉謙信と武田信玄が戦っていた頃である。
そして落城したのが天正十八年(1590)、豊臣秀吉が小田原城を包囲して降伏させた年である。
その時、小田原城には倉賀野城主・金井淡路守も籠城していたといい、落城後二十日ほどで死去したとある。
つまり、小田原城陥落と共に、「倉賀野城」も主を失ったという訳だ。
何ともはや、戦いの嵐に翻弄され続けた400年の歴史であった。

「倉賀野城址」の崖上から望む烏川は、世の移り変わりをどう見続けてきたのだろう。
少なくとも、戦のない平和な時代が来たことを、安堵の気持ちで見ているに違いない。
この川が、
再び血の色で染まることのないように、
心から願ってやまない。
「井戸八幡」から200mほど西へ行ったところにある「雁(かりがね)児童公園」が、、「倉賀野城」別名「雁城」の本丸跡である。
大きな城址碑と、城の歴史を記した石碑がなければ、それとは分からぬほど小さな公園である。
他県にも「雁城」と呼ばれた城はあるようだが、その名の謂れについてはよく分からない。
ただ「倉賀野城」の場合は、城主・倉賀野氏の家紋が、「対い雁(むかい・かりがね)」だというので、たぶんそれが由来ではないかと思われる。

この家紋、ちょっと見ると蝙蝠(こうもり)のようだが、正解は鳥の雁(かり)が向かい合っている図柄である。
戦国時代の「倉賀野城」は、当初、上杉家に属していたが、後に宿敵の武田家に属することとなる。
その家紋が、「雁」という渡り鳥とは、少々皮肉な話である。
高崎市文化財調査委員で古城塁研究家の、山崎一氏が書き残してくれた「倉賀野城址」図がある。
昭和44年(1969)当時の道路と重ね合わせてあるので、どの辺りにあったのか見当がつく。
この図を見ると、「牛街道」や「太鼓橋」下の道が、「倉賀野城」の堀の跡だということがよく分かる。
旧中山道も、今より一本北の道だったというから、やはり遠堀を埋めて道にしたのだろう。
倉賀野氏がここに館を構えたのは治承年間というから、平清盛と源頼朝が戦っていた1177年~1184年だ。
「倉賀野河岸」の開設は永禄四年(1561)、川中島で上杉謙信と武田信玄が戦っていた頃である。
そして落城したのが天正十八年(1590)、豊臣秀吉が小田原城を包囲して降伏させた年である。
その時、小田原城には倉賀野城主・金井淡路守も籠城していたといい、落城後二十日ほどで死去したとある。
つまり、小田原城陥落と共に、「倉賀野城」も主を失ったという訳だ。
何ともはや、戦いの嵐に翻弄され続けた400年の歴史であった。

「倉賀野城址」の崖上から望む烏川は、世の移り変わりをどう見続けてきたのだろう。
少なくとも、戦のない平和な時代が来たことを、安堵の気持ちで見ているに違いない。
この川が、
再び血の色で染まることのないように、
心から願ってやまない。
(参考図書:「高崎の散歩道 第2集」)
【倉賀野城址碑】