倉賀野の中町の信号を山名方面に曲がると、烏川に架かる「共栄橋」がある。
橋の手前を左に曲がると、すぐ右に入る道があり、その坂を下ったところが「倉賀野河岸(がし)跡」である。
江戸からの舟荷はここで揚げられ、「牛街道」を通って倉賀野宿の問屋まで運ばれたのである。
その頃は、もっと滔々と水が流れていたのであろう。
「倉賀野河岸」の開設は、戦国時代の永禄四年(1561)だそうである。
嘉永五年(1852)の記録では、河岸の保有舟数は百三十三艘、舟持十数軒、河岸問屋十数軒にも及んでいたというから凄い。
当時、烏川~利根川~江戸川を通って日本橋まで五十里余(約200km)、下り舟で三日~四日、上り舟では十七日~十八日かかったという。
気の遠くなるような日数だが、それでも大量に輸送できるので陸路よりも利用されたたのだろう。
明治十七年(1884)に東京・高崎間の鉄道開通により、「倉賀野河岸」は歴史の幕を降ろすこととなる。
「倉賀野河岸」と共に、姿を消してしまったのが舟運の守り神「大杉神社」である。
共栄橋の上流側崖上、民家の庭にある「大杉神社跡」の石碑だけがそれを伝えている。
豪華な彫刻が施された社殿は、榛東村新井の八幡神社の本殿として移されているそうだ。
一度、見に行きたいと思っている。
共栄橋のたもとには、これも知る人の少ない「御行祖母」さまという小さな石宮がある。
「おぎょうそぼ」とか「おぎょうばあ」とか呼ばれているらしい。
新型インフルエンザの恐怖が、世界を駆け巡っている今、昔の人に倣って「おぎょうばあさん」にお参りしてみてはどうだろう。
橋の手前を左に曲がると、すぐ右に入る道があり、その坂を下ったところが「倉賀野河岸(がし)跡」である。
江戸からの舟荷はここで揚げられ、「牛街道」を通って倉賀野宿の問屋まで運ばれたのである。
その頃は、もっと滔々と水が流れていたのであろう。
「倉賀野河岸」の開設は、戦国時代の永禄四年(1561)だそうである。
嘉永五年(1852)の記録では、河岸の保有舟数は百三十三艘、舟持十数軒、河岸問屋十数軒にも及んでいたというから凄い。
当時、烏川~利根川~江戸川を通って日本橋まで五十里余(約200km)、下り舟で三日~四日、上り舟では十七日~十八日かかったという。
気の遠くなるような日数だが、それでも大量に輸送できるので陸路よりも利用されたたのだろう。
明治十七年(1884)に東京・高崎間の鉄道開通により、「倉賀野河岸」は歴史の幕を降ろすこととなる。
「倉賀野河岸」と共に、姿を消してしまったのが舟運の守り神「大杉神社」である。
共栄橋の上流側崖上、民家の庭にある「大杉神社跡」の石碑だけがそれを伝えている。
豪華な彫刻が施された社殿は、榛東村新井の八幡神社の本殿として移されているそうだ。
一度、見に行きたいと思っている。
共栄橋のたもとには、これも知る人の少ない「御行祖母」さまという小さな石宮がある。
「おぎょうそぼ」とか「おぎょうばあ」とか呼ばれているらしい。
新型インフルエンザの恐怖が、世界を駆け巡っている今、昔の人に倣って「おぎょうばあさん」にお参りしてみてはどうだろう。
(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」 「続・徐徐漂たかさき」)
【倉賀野河岸跡の碑】
【大杉神社跡の碑】
【御行祖母石宮】