坂を上りて赤坂町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町
坂を上り切った角に、「大津屋」という薬種問屋がありました。
屋号からして、出は近江国の人なんでしょう。
その建物の壁には、「三国道」「中仙道」の文字が書いてあったそうです。
ここが「中山道」から「三国道」(三国街道)への分岐点です。
壁に道しるべを書いたのは、しょっちゅう道を聞かれて面倒だったんでしょうね、きっと。
ところで、その「大津屋」なんですが、創業はいつで、いつ店を閉めたのか、はっきり書いてある資料が見つかりません。
「新編高崎市史 資料編9」に、元禄期(1688~1704)に描かれたらしいと言う「高崎宿・倉賀野宿往還通絵図面」があります。
それで「大津屋」があった所を見ると、「六之助 紺屋」となっています。
ずっと下って、文化十年(1813)の「遠御構筋絵図」で見ると、字が潰れていて読みにくいのですが、「㐂兵衛」(喜兵衛)と読めそうな文字が書いてあるので、この人が滝川喜平のご先祖らしいです。
しかしこの時点ではまだ薬種問屋ではなかったようです。
というのは、20年後の天保二年(1831)「中山道高崎宿往還絵図」に、「百姓 喜平治」となっていますので。
では、いつから薬種問屋になったのか。
万延元年(1860)の「覚法寺絵図」を見ると「滝川」と苗字が付いており、土地も三ヵ所を有しています。
推測ですが、この間に薬種業を始めて財を成したのではないでしょうか。
その「大津屋」当主・滝川喜平についても、あまり詳しいことを書いたものがありません。
明治十八年(1885)発行の「上州高崎繁栄勉強一覧」でも、頭取となるほどの人物なんですけどね。
図書館の司書さんにお手伝い頂いて、ようやく見つけたのがこれです。
右の「帝国信用録」では、瀧川文二郎と瀧川喜平という名前があります。
開業年月の欄があるんですが、残念ながら「維新前」としか書かれていません。
左の「人事興信録」を見ると、文二郎は先代の喜平の所に婿に入って、高崎銀行の取締役をしていたようです。
先代が亡くなると喜平の名を継いで「大津屋」を相続し、他にもいろいろな事業の役員を務めていました。
また「妹すゑは東京・・・高木耕治に嫁せり」とありますが、この高木氏が日本橋の「瀧川支店」の主です。
さて、そんな「大津屋」ですが、店を閉めたのはいつ頃なんでしょう。
これも、はっきり書かれたものが見つかりません。
昭和二十八年(1953)に撮影された写真には「大津屋」が写っています。
しかし昭和三十六年(1961)の「住宅案内図」では空地になっていますので、その8年間の間に姿を消してしまったようです。
跡地には、しばらくガソリンスタンドがありましたが、現在は覚法寺の駐車場になっています。
角に道しるべの木柱が一本立っていますが、「中山道」としか書いてありません。
「大津屋」のことを知っている人なら、ここは
「↕中山道 →三国道」とでもしたところなんでしょうが・・・。
さて、「大津屋」でずいぶん長居をしてしまいました。
「三国道」に入るとすぐ「四ッ屋町」です。
「赤坂町」との境界は、高崎城の「遠構え」でした。
現在の「弥助鮨」南側の側溝がその痕跡です。
「高崎散歩」の歌詞では「四ッ谷」になっていますが、この町に住んでいた郷土史家・土屋喜英氏の著書「高崎漫歩」には、こんな記述があります。
「 | 四ッ屋を四谷と東京なみに書いたこともあったようで、古い記録には時々四谷が出てくるが、谷があった様子はなく、近くに四阿屋(あずまや)宮と言う祠があり、それから四屋としたか、あるいは創設当時四軒の家でもあったかとも考えられる。 |
四ッ屋町が本町から独立したのは正徳元年(1711)で、四年には、十八戸の家があったというから四軒の家があったというのもどうかと思う。」 |
小さな「四ッ屋町」を過ぎると、「相生町」「住吉町」と続きます。
「相生町」は、宝暦六年(1756)に赤坂村の小泉市左衛門という人が家を造り始め、同九年(1759)に高崎城主・大河内輝高が「相生町」と命名したのだそうです。
「相生町」には面白い話がいくつかありますので、過去記事でご覧ください。
◇史跡看板散歩-10 稲荷横丁
「住吉町」ができたのは明治三年(1870)で、町名は三つの候補を紙に書いて、なんと籤引きで決めたと言います。
落選した二つの町名は「竹川町」「真砂町」だったそうですが、結果的にみると一番佳い町名が選ばれたように思います。
余談ですが、私めの名前も高崎神社で示したいくつかの中から引いて決めたんだと、親父が言ってました。