坂を上りて赤坂町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町
「長松寺」と中山道を挟む感じで「恵徳寺」があります。
暫くぶりで来たんですが、だいぶ参道の雰囲気が変わりましたね。
石仏が並んでお出迎えです。
「菩薩岳(ぬれ菩薩)」とあります。
墓地入り口にも、立派な石仏がたくさん並んでいます。
多くは観音さまですが、不動明王もいます。
あれ?
この辺に「しょうづかばば」の石像があったはずなんですけど、無くなっちゃいましたね。
この鐘楼も前はなかったです。
鐘を撞くには厳しいお定めがあるようで。
いろいろ変わってるので、ちょっと気になって確認したくなったお墓があります。
ひとつは一路居士・馬場一郎のちょっと変わったお墓。
もうひとつは小栗上野介の隠し金を手に入れたという飛騨屋・岩崎源太郎のお墓です。
どちらも、以前と同じ場所にあったのでホッとしました。
赤坂側の参道にも石仏がずらっと並んでいます。
その中に、「閻魔さん」と仲良さそうに肩を並べた「しょうづかばば」がいました。
右側が「しょうづかばば」です。
多くの人の咳を止めてあげたのでしょう、すっかりお顔が磨り減っています。
参道入り口の築地塀に、寺の由緒を書いた石板が埋め込まれています。
「井伊直政が伯母のために箕輪の日向峰に創立、直政が高崎に移った時に城北の榎森に移し、酒井家次が現在地に移した。」ということで、おおよそ「高崎志」(寛政元年/1789)によるものと思われます。
これが「高崎寿奈子」(宝暦五年/1755)では、若干異なっています。
「井伊直政が箕輪矢原に一宇を開基して恵徳寺と号し、直政が高崎に移る時に寺も日向峰という所へ移り、その後今の所へ寺を造立する。
日向峰は今の熊野小路御給人屋敷の辺である。」
ということで、「日向峰」は箕輪ではなく、高崎の本町一丁目から高崎神社への道沿い辺りらしいのです。
さらに、「更正高崎旧事記」(明治十五年/1882)の「赤坂町」の項に、「恵徳寺旧記」によるとしてこう書かれています。
「 | 此旧記ニヨレバ、(それまでは竹藪だった)寺場ヲ開墾ナシ続テ人家モ立並、給人衆ノ居住アルヲ以テ町名(給人町)トス。 |
後、給人衆ハ日向峯ヘ引移サレタルト云。(略) | |
扨(さて)日向峯ハ今ノ覚法寺ノ辺也。」 |
築地塀の石板には、「高崎という地名は恵徳寺の永潭和尚が井伊直政に進言した」とも書いてあります。
このことについては、過去記事にたっぷり書いてありますので、そちらをご覧ください。
◇駅から散歩 観音山(6)
◇駅から散歩 観音山(7)
◇駅から散歩 観音山(8)
あぁ、21番の歌詞は、まだ半分しか進んでません。
「北に曲れば三国道 四ッ谷相生住吉町」は、また次回へ繰り越しですね。