吉井町多胡小学校のすぐ北、セイタカアワダチソウの向こうに「頌徳三碑」はあります。
草がなければ、こうらしいです。
ただ、石灯籠は今建ってません。
もしかすると、小学校の通学路なので、子どもが登ったりすると危険だから、かも知れませんね。
史跡看板ですが・・・。
そうですか、としか言いようがないのですが・・・。
三碑です↓
上毛新聞社発行の「群馬県人名事典」を見ると、向井周彌は、
と書いてあります。
江原文作については、
大澤良太郎については載ってなくて、長男・要八が載っています。
そんな要八を育てた父・良太郎については、「吉井町誌」に書かれていました。
鬼も居り 仏も居りて 泡立草 迷道院
石灯籠があった場所には、こんな石が無造作に置いてありました。
大きな兎が、猫のお尻をかじろうとしてて、それを犬がじっと見ているような・・・。
見えません?
草がなければ、こうらしいです。
ただ、石灯籠は今建ってません。
もしかすると、小学校の通学路なので、子どもが登ったりすると危険だから、かも知れませんね。
史跡看板ですが・・・。
そうですか、としか言いようがないのですが・・・。
三碑です↓
上毛新聞社発行の「群馬県人名事典」を見ると、向井周彌は、
「 | 県会議員時代、活発な言論と関羽髯の風貌で鬼将軍と言われた。 |
与志井銀行甘楽社監査役、帝国農会、地方森林会評議員など産業の改良増産に尽くした。」 |
江原文作については、
「 | 甘楽用水、三名川貯水池の建設、十国峠改修、多胡橋架設など公共事業に尽くした。 |
豪放果断の気質で愛郷の至情にあふれ、皆からの信望を集めていた。」 |
大澤良太郎については載ってなくて、長男・要八が載っています。
「 | 昭和二十一年まで教職を続け、のち多胡村助役、村長、教育長を歴任。 |
円満高潔な人格者で、子弟教育と教育諸条件の整備改善に情熱を捧げる。」 |
そんな要八を育てた父・良太郎については、「吉井町誌」に書かれていました。
「 | 性温良恭倹(きょうけん:人に対しては恭しく、自分自身は慎み深く)で、人に教えるに春風の如く、世に聞達(ぶんたつ:名が知れわたる)を求めず、愛郷心に富んだ・・・」 |
鬼も居り 仏も居りて 泡立草 迷道院
石灯籠があった場所には、こんな石が無造作に置いてありました。
大きな兎が、猫のお尻をかじろうとしてて、それを犬がじっと見ているような・・・。
見えません?
【頌徳三碑】