

車道に出る直前、左の石垣の上に大きな墓石のようなのを目にすることでしょう。
目にしたことはあっても、わざわざ上って近くまで行った人は少ないかも知れません。
墓石に見えるのは、「井上翁頌徳碑」という石碑です。
三面に、井上保三郎の事跡が漢文でびっしりと刻まれています。
第51話で紹介した、「山形の桜桃」の逸話も書かれてますね。
昭和十六年(1941)とありますから、井上保三郎が亡くなってから三年後、慈眼院が高野山から移転された年に建てられたものです。
誰が建てたのかというと、「今茲高崎市長欲勒」(今年、高崎市長が石に刻むことを欲す)とありますので、市長の意向によって建てられたもののようです。

第62話にも書きましたが、高野山まで慈眼院の本尊勧請に出掛けたのが、この市長です。
久保田市長については、高崎市のHPに森田秀策先生が書いている一文がありますので、そのまま転載させて頂きます。
「 | 昭和11年9月、市民が待望していた全国で最も若い久保田宗太郎第11代市長が誕生しました。 |
久保田は慶応大学を卒業後帰郷し、デパート形式の大黒屋を経営する傍ら、井上房一郎や吉野秀雄らと地域を語る新生会を結成、高崎の都市づくりなどを論じていました。 | |
助役を勤めた後、多くの市議から推薦され34歳のとき市長になりました。 | |
昭和14年の佐野村の合併や下和田町の総合運動場を完成させました。 | |
昭和15年には、県立高崎工業学校を開校させ、商工業都市への発展を目指した施策も行いました。 | |
戦時下の公務にあったことから、終戦後の昭和21年11月に公職追放となり、三期にわたって在職した市長の座から退きました。」 |
そういえば、保三郎の銅像を高崎板紙から寄贈させたのも、久保田市長の時でした。
保三郎への強い思慕の念を感じます。


ブロンズ像が建っています。
観音山と、何か関係があるのでしょうか。
作者の晝間弘(ひるま・ひろし)という人は東京葛飾の人で、同じブロンズ像が葛飾区役所にも建っているらしいですが・・・。

碑背には、こう刻まれています。
「 | この櫻松苑は高崎市発展の為に貢献された櫻井伊兵衛 中曽根松五郎 両翁の功績を永く記念する為造られたものである |
この櫻松苑に建てられた躍進の像は 山崎富治氏の御好意によるものである |
「 | 昭和四十五年十一月 |
高崎市長 住谷啓三郎 |
この小山には、「櫻松苑」という名前が付いていたのですね。
櫻井伊兵衛の「櫻」と、中曽根松五郎の「松」をとった訳ですか。
題字は、中曽根松五郎の次男・中曽根康弘元総理の書です。
「躍進」像建設に好意を寄せた山崎富治という人は、「相場の神様」と言われた山崎種二の次男で、山種証券社長、日本青年会議所会頭などを歴任し、山種美術館館長でもあった人物です。

碑背には、里見村出身の松田喬平という人が生前「桜松苑」をこよなく愛したとありますが、ここに相応しい碑なのかどうか、私にはよく分かりません。
足元に気を付けながら不揃いの石段を下っていくと、右奥にこんな句碑もあります。

窓あり秋の
雲近く」
作者は「自得」という号の方らしいですが、裏面に「慶祝喜壽 昭和四十二年十月吉日」とあります。
「桜松苑」には、こちらのように観音さまに因んだ碑や石仏が相応しいように思います。

その向こうには、観音さまの大きなお背中が見えます。
目を左下にやって、ちょっと、そこにある石のベンチを見てほしいのです。
ちょっと見ただけでは分からないかも知れませんが、「高崎市井上」と刻まれています。
石筆で擦って、見えるようにしてみました。


昭和十二年(1937)とありますから、白衣大観音建立の翌年にこのベンチを設置したということになります。
この年、井上保三郎は「銅像山」に乃木将軍の銅像を建立しています。
ですから「銅像山」にも、ここにあるのと同じ石のベンチが設置されています。
よーく見回すと、「桜松苑」のあちらこちらに同じベンチがあるのに気付くでしょう。
もしかすると、保三郎はこの小山も「銅像山」として沢山の銅像を建てるつもりでいたのかも知れません。

きっと、保三郎が設置したベンチを再利用したんでしょうね。
今は、訪れる人も少ない「桜松苑」ですが、このままでは何とももったいない気がします。
例えばですが、桜の咲く頃を「桜松祭」とでもして、訪れた人に観音さまを題材に俳句でも短歌でも都々逸でも作ってもらって、入選者の作品を一年間「桜松苑」に掲示するなんてのはどうでしょう。
それを見て触発される人も出てくるでしょうから、いつでも投稿できる「桜松ポスト」なんてのを設置してもいいかも知れません。
その内、自分の句碑や歌碑を建てたいという人も出てきたりして。
そんな「桜松苑」は、どうでしょう。
【井上翁頌徳碑】