知りたい知りたいと思っていると、奇跡というのは起こるものです。
たまたま見ていた、明治四十五年(1912)発行の細野平格※著「金比羅霊験記 : 付・高崎名所案内」という本に、「竹の子餅」の広告が載っているのを発見!
どうやら、高崎駅構内の「矢島賣廛(売店)」で売られていたようです。
右端に書いてある文字を「さいち民芸店」のご主人に読んでもらったところ、「天来庵特賣」だそうです。
やはり、前回記事中の短冊に書かれていたのは「天卒庵」ではなくて「天来庵」だったようです。
ということは、西馬の句に付け句をした「天来」は、牧岡天来ではなく「天来庵」の主人である線が濃厚です。
この絵を見ると、形は「ちまき」のような感じですね。
竹皮の中にはどんなお餅が入っていたのでしょうか。
そして、「天来庵」というお菓子屋さんはどこにあったのでしょうか。
ひょいと思い出したのが、若いころ高崎駅前の「梅玉堂」で修行していたという、新(しん)町・酢屋製菓のご主人です。
御年八十歳のこのご主人なら、もしかするとご存知かもしれないと思い、車を飛ばして行ってみました。
が、残念ながら「竹の子餅」も「天来庵」も聞いたことがないとのことです。
う~ん、万事休すか・・・。
ところがですよ。
そんな迷道院に、またまた奇跡が起こりました!
高崎市立中央図書館に於いて、「千客万来 高崎の引き札・広告~明治から昭和~」というミニ展示会が開かれていまして、その展示品の中に、あったんですよ!
「天来庵」の弁当の包み紙が!
あまりのことに、飛び上がりました!
職員の方に、写真撮影とブログ掲載の許可を求めたところ、責任者の方が三人ほど入れ替り立ち代りお見えになりましたが、結局、撮影はできないということでした。
基本的に館内は撮影禁止であるということと、ブログで公開されると撮影したいという人が後を絶たなくなるから、というのがその理由でした。
う~~~ん。
それでも、撮影したい理由を縷々説明したところ、展示期間が終わった2月26日以降ならばよいというお話を頂くことができました。
それまで待つ訳にもいかないので、取りあえず小さなメモ用紙にスケッチをして帰ってきました。
その、下手なスケッチがこれです。↓
見づらいかも知れませんが、左下に「髙崎駅前 天来庵 矢島」と書いてあります。
これで、やはり「天卒庵」ではなく「天来庵」であること、場所は高崎駅前にあったということがハッキリしました。
先の「金毘羅霊験記」の広告に「高崎駅構内矢島売店」とあるのは、「天来庵」の広告でもあったという訳です。
包み紙上部の松・竹・梅の飾り枠の中には、「高崎の三大観音」として「洞窟観音」「清水寺戦捷観音」「白衣大観音」のイラストが描かれていました。
「白衣大観音」が描かれているということは、昭和十一年(1936)以降であり、「戦捷観音」や「時局弁当」という表現からは、昭和二十年(1945)以前に作られていた弁当と思われます。
さて、「天来庵」が駅弁をつくっていたとなると、明治十七年(1884)創業の「たかべん」こと「高崎弁当」の前身ではないかという気がしてなりません。
しかし、「高崎弁当」のHPを見ても、それらしいことは書かれていません。
ところが、ここにも奇跡の神様がいらっしゃいました。
「ライター望月の駅弁E-KIBUN」というブログに、「天来庵」と「高崎弁当」の関係が書かれていたのです。
著者のライター望月さんによると、
とあります。
ここまで分かると、「天来庵」の駅弁を検索したくなります。
すると、こういうもののコレクションをなさっている方が、いらっしゃるんですね。
「天来庵」の弁当の包み紙の画像が、掲載されていました。
【上ちゃんさんのHP(駅弁の小窓)】より
◇「すき焼弁当」 昭和十一年(1936)
◇「上等御辨當」 昭和十三年(1938)
【isso.usuiさんのHP(見せたがり屋のコレクション)】より
◇「上等御辨當」 昭和十年(1935)
図書館で撮影できなかっただけに、嬉しくなりました。
とそこへ、今度は奇跡のメールが入りました。
「さいち民芸店」のご主人からです。
という内容でした。
そこで、昭和三十六年(1961)の住宅案内図を見ると、ありましたよ!
「高崎弁当 第二工場矢島」!
やれやれ、これでやっと胸のつかえが半分とれたような気分になりました。
すると、また追いかけるようにメールが。
ついに「竹の子餅」の正体も明らかになり、胸のつかえはすっかり解消いたしました。
此の度すっかりお世話になってしまった「さいち民芸店」のご主人、ハンドルネームが「雀の子」さんといいます。
何だか「竹の子」と似ていますし、竹に雀は付き物です。
これも、奇跡といえば奇跡かも知れません(笑)
ありがとうございました!
さて、今や幻となってしまった「竹の子餅」ですが、これだけの謂れある高崎名物があったんですから、ぜひとも復刻版をつくってほしいものです。
とかく名物がないと言われる高崎の、古くて新しい名物にしてはいかがでしょうか。
高崎のお菓子屋さん、ぜひ挑戦してください!
いやー、すっかり「竹の古道」の奥まで入り込んでしまいました。
長い記事を最後まで読んで頂いた皆さん、ありがとうございました。
次回こそ、西馬さんのお話です。
では、また。
※後日、天来庵「時局弁当」の包み紙画像を入手できましたので、追記いたします。(2019.5.7)
たまたま見ていた、明治四十五年(1912)発行の細野平格※著「金比羅霊験記 : 付・高崎名所案内」という本に、「竹の子餅」の広告が載っているのを発見!
※ | 細野平格は、「高崎五万石騒動」の著者・細野格城と同一人物。 |
どうやら、高崎駅構内の「矢島賣廛(売店)」で売られていたようです。
右端に書いてある文字を「さいち民芸店」のご主人に読んでもらったところ、「天来庵特賣」だそうです。
やはり、前回記事中の短冊に書かれていたのは「天卒庵」ではなくて「天来庵」だったようです。
ということは、西馬の句に付け句をした「天来」は、牧岡天来ではなく「天来庵」の主人である線が濃厚です。
この絵を見ると、形は「ちまき」のような感じですね。
竹皮の中にはどんなお餅が入っていたのでしょうか。
そして、「天来庵」というお菓子屋さんはどこにあったのでしょうか。
ひょいと思い出したのが、若いころ高崎駅前の「梅玉堂」で修行していたという、新(しん)町・酢屋製菓のご主人です。
御年八十歳のこのご主人なら、もしかするとご存知かもしれないと思い、車を飛ばして行ってみました。
が、残念ながら「竹の子餅」も「天来庵」も聞いたことがないとのことです。
う~ん、万事休すか・・・。
ところがですよ。
そんな迷道院に、またまた奇跡が起こりました!
高崎市立中央図書館に於いて、「千客万来 高崎の引き札・広告~明治から昭和~」というミニ展示会が開かれていまして、その展示品の中に、あったんですよ!
「天来庵」の弁当の包み紙が!
あまりのことに、飛び上がりました!
職員の方に、写真撮影とブログ掲載の許可を求めたところ、責任者の方が三人ほど入れ替り立ち代りお見えになりましたが、結局、撮影はできないということでした。
基本的に館内は撮影禁止であるということと、ブログで公開されると撮影したいという人が後を絶たなくなるから、というのがその理由でした。
う~~~ん。
それでも、撮影したい理由を縷々説明したところ、展示期間が終わった2月26日以降ならばよいというお話を頂くことができました。
それまで待つ訳にもいかないので、取りあえず小さなメモ用紙にスケッチをして帰ってきました。
その、下手なスケッチがこれです。↓
見づらいかも知れませんが、左下に「髙崎駅前 天来庵 矢島」と書いてあります。
これで、やはり「天卒庵」ではなく「天来庵」であること、場所は高崎駅前にあったということがハッキリしました。
先の「金毘羅霊験記」の広告に「高崎駅構内矢島売店」とあるのは、「天来庵」の広告でもあったという訳です。
包み紙上部の松・竹・梅の飾り枠の中には、「高崎の三大観音」として「洞窟観音」「清水寺戦捷観音」「白衣大観音」のイラストが描かれていました。
「白衣大観音」が描かれているということは、昭和十一年(1936)以降であり、「戦捷観音」や「時局弁当」という表現からは、昭和二十年(1945)以前に作られていた弁当と思われます。
さて、「天来庵」が駅弁をつくっていたとなると、明治十七年(1884)創業の「たかべん」こと「高崎弁当」の前身ではないかという気がしてなりません。
しかし、「高崎弁当」のHPを見ても、それらしいことは書かれていません。
ところが、ここにも奇跡の神様がいらっしゃいました。
「ライター望月の駅弁E-KIBUN」というブログに、「天来庵」と「高崎弁当」の関係が書かれていたのです。
著者のライター望月さんによると、
「 | 元々、高崎弁当は、55年前の昭和33年に松本商店、天来庵矢島、末村商店という高崎駅で駅弁を販売していた3つの業者さんが合同してできた駅弁屋さんです。」 |
ここまで分かると、「天来庵」の駅弁を検索したくなります。
すると、こういうもののコレクションをなさっている方が、いらっしゃるんですね。
「天来庵」の弁当の包み紙の画像が、掲載されていました。
【上ちゃんさんのHP(駅弁の小窓)】より
◇「すき焼弁当」 昭和十一年(1936)
◇「上等御辨當」 昭和十三年(1938)
【isso.usuiさんのHP(見せたがり屋のコレクション)】より
◇「上等御辨當」 昭和十年(1935)
図書館で撮影できなかっただけに、嬉しくなりました。
とそこへ、今度は奇跡のメールが入りました。
「さいち民芸店」のご主人からです。
「 | すでにお調べ済みかもしれませんが、今日、近所の年配の方にお会いしましたので、「天来庵、矢島」について聞いてみました。 |
戦後の矢島商店は、高崎駅構内にあった駅弁屋で、昭和30年代半ばに、国鉄の指導で、三軒有った弁当屋、矢島、松本商店、末村商店を合併させ、「高崎弁当」(現存)にしたようです。 | |
矢島の工場は、今の高島屋の北側、元のダイエー跡、現駐車場にあり、わりと大きな地所であったようです。 (この間、お見せした、大正時代の電話帳に、矢島孫三郎 天来庵、旭町37 高崎駅構内飲食類販売業としてでていました。番号五五一) |
|
合併の結果、矢島商店は無くなり、「高崎弁当」は最もやり手だった末村さんが主導権を握り、現在ではもっぱら末村さんが経営しています。 ちなみに、鶏めし、は末村商店の弁当だったようです。 矢島さんの消息は、今では不明なようです。 |
|
ただ、近所の方の話では、戦後、「竹の子餅」は見たことがないそうで、いつまで販売していたのか分かりません。」 |
そこで、昭和三十六年(1961)の住宅案内図を見ると、ありましたよ!
「高崎弁当 第二工場矢島」!
やれやれ、これでやっと胸のつかえが半分とれたような気分になりました。
すると、また追いかけるようにメールが。
「 | 今日、たまたま、中紺屋町(銀座通り)の菓子店、「観音屋」さんの前の御主人、武井さんがいらっしゃいましたので、話を聞くことができました。 |
武井さんも戦後、一時、駅構内で脱脂粉乳の牛乳を売っていたので、矢島さんや、高崎弁当のことを良くご存じでした。 竹の子餅についても覚えていました。 |
|
餡(あん)を牛皮(ぎゅうひ)でくるみ、それに、黄粉(きなこ)を掛けて、竹皮で包んだようです。 | |
観音屋さんでも、売っていたことがあったようです。 まったく、天来庵のものと同じかは分かりませんが、似たようなモノかもしれません。」 |
ついに「竹の子餅」の正体も明らかになり、胸のつかえはすっかり解消いたしました。
此の度すっかりお世話になってしまった「さいち民芸店」のご主人、ハンドルネームが「雀の子」さんといいます。
何だか「竹の子」と似ていますし、竹に雀は付き物です。
これも、奇跡といえば奇跡かも知れません(笑)
ありがとうございました!
さて、今や幻となってしまった「竹の子餅」ですが、これだけの謂れある高崎名物があったんですから、ぜひとも復刻版をつくってほしいものです。
とかく名物がないと言われる高崎の、古くて新しい名物にしてはいかがでしょうか。
高崎のお菓子屋さん、ぜひ挑戦してください!
いやー、すっかり「竹の古道」の奥まで入り込んでしまいました。
長い記事を最後まで読んで頂いた皆さん、ありがとうございました。
次回こそ、西馬さんのお話です。
では、また。
※後日、天来庵「時局弁当」の包み紙画像を入手できましたので、追記いたします。(2019.5.7)