
鎌倉街道はここで旧中山道と合流します。
というより、旧中山道がここから鎌倉街道を利用した、という方が正しいのでしょう。
ここは中山道高崎宿の「京口」ということで、京の方から来る旅人は、今の「君が代橋」のちょっと下流辺りで烏川を渡って、写真向こう側からこの角を左へ曲がり、赤坂を上って、高崎城下へ入って来るわけです。
もともと井伊直政が高崎城を築いた目的は、中山道を通って江戸へ攻め上ろうという外敵を、食い止めるためでした。
そのため、この「京口」は高崎宿の「上の木戸」として、特に厳重な備えになっています。

各木戸の番小屋には武士が常時詰めていて、六尺棒を持って立っていたといいます。
そして「内木戸」の近くには、中山道を挟んで「長松寺」と「恵徳寺」が、高台から見下ろすように配置されています。
いざという時は、境内に兵士を配して迎え撃つために、ここに寺を移設したのだそうです。

薄ぼんやりと記憶に残っている「常盤町交番」は、小さな、文字通り「ポリスボックス」という感じで、昭和四十年(1965)頃まであったのではないかと思います。

古の鎌倉街道も、おそらく、ここで烏川を渡るというルートだったのでしょう。
烏川の岸には美しい松並木の台地が続き、「台が松」という名勝地になっていたそうです。
そもそも、高崎と「松」とは歴史的にも深い関係があります。
井伊直政が、それまでの「和田」という地名を、当初「松ケ崎」にしようと思ったのは、城内にあった名木「露の松」に由るものだといいますし、
「常盤町」という町名も、常緑の「松」の「常盤(永久に変わらぬこと)」に因んで名付けたといわれます。
高崎で最も歴史のある「中央小学校」の旧校歌にも、「松のときわの 色深く」と謳われています。
だいいち、市役所の所在地が「高松町」じゃありませんか。
歴代市長最長在任記録保持者だって松・・・・・ま、いいや。
それなのに、「市の木」が「松」ではなく、「ケヤキ」と「カシ」だとは・・・。

そのすぐ先は、現代の中山道・国道17号で、ひっきりなしに車が走っています。

この堀には「吉兵衛車」とか「田村車」とかいう水車があったとか、増水により子供がたびたび流されて命を落すので「人取り川」と呼ばれたとかいう話がありますが、現在は、写真のように堀の底の細い溝に、わずかな水が流れているだけです。
清水吉兵衛については、グンブロガー・捨蚕さんがいろいろ調査して下さっていますので、そちらをご覧ください。
◇ぶら捨蚕 「吉兵衛さん」

烏川と碓氷川の二つの川を越える橋なので、全長500m以上と県下最長の木橋で、時代劇の撮影にも使われた、趣きのある橋でした。
それよりもっと前には、「千代橋」と「八千代橋」という、二つの土橋が架かっていたそうです。
その頃の高崎の橋は、実に粋な名前が付いていたもので、北から、「君が代」「千代」「八千代」「聖石」と、明らかに国歌を意識して付けた名前だと分かります。

ところが、この「八千代橋」も、台風が来るたびによく流されていました。
昭和四十二年(1967)に和田橋(上の地図では「高崎大橋」という名で計画されていたんですね。)が開通すると、木橋の「八千代橋」は撤去されてしまいます。
そして昭和六十二年(1987)、碓氷川にだけ鋼鉄製の橋が架かり、半分だけの「八千代橋」になってしまいました。
本当は、「千代橋」の名を復活すべきだったんでしょうね。
さて、長くなりましたので、今日はここまでと致しましょう。
(参考図書:「続・高崎漫歩」「新編高崎市史」)