2023年03月25日

高崎唱歌散歩-26番 ♪本町一・二・三丁目・・・

本町一・二・三丁目
商店櫛比(しっぴ)軒ならべ
新規を競ひて売出(うりいだ)
市内第一繁昌地

現在の本町一・二・三丁目の区割りはこうなっています。


「櫛比」とは、「櫛の歯のように隙間なく並んでいる様子」を言うそうです。
明治三十七年(1904)「群馬県営業便覧」に載っている本町の商店群ですが、たしかに、びっしりと並んでいます。

その中で聞き慣れないのが「勸工塲」(かんこうば:勧工場)でしょう。

「勧工場」については、「新編高崎市史 通史編4」にこう書かれています。
第一回の内国勧業博覧会が明治十年(1877)八月に東京で開かれた。
これは各種の国際博覧会に触発され、かたわら政府の掲げる殖産興業の実をあげるために企画されたもので、上野公園を会場として開催された。
出品物の即売も行われ、好評のうちに終了したのち、残った商品を処分するため新たに陳列所を設け販売した。これが勧工場のはじまりであり、のち各地に私設勧工場が続出した。
高崎でも明治二十一年(1888)、本町一丁目の北側に勧工場が開店した。
これまでの伝統的な商いのかたちであった「座売り」を排除して、掛け値なく「正札販売」に徹し、取扱品目も玩具・文房具・化粧品・食料品を除く雑貨類を商う小型のデパート方式の店舗が現れたのである。
勧工場の出現は、当時の商人に衝撃を与え、商店近代化に影響を与えた。」

「高崎繁昌記」にイラストが載っています。


中の様子は、こんな感じでした。
店内の商品はガラスケースに揃えられ、U字形の回遊性をもたせた店舗にハイカラな雰囲気を漂わせて陳列されていた。
建物の持ち主がいて、出店者を募り、彼らの支払う出品料が家賃に相当した。通常、出品料は一円五十銭から二円五十銭であった。」
(新編高崎市史 通史編4)

出店者の一覧が「高崎繁昌記」に載っています。


建物は、明治十八年(1885)に建てられた「北部連合戸長役場」を利用したそうです。


「勧工場」の出現により、人々の買い物スタイルも変化します。
これまで中流以上の家庭では買物は自宅に取り寄せて品選びをする慣習があったが、勧工場商法は、彼らをショッピングに赴かせ、陳列商品の中から自由に選んで買物したり、ウィンドーショッピングを楽しむこともできるようになった。」
(新編高崎市史 通史編4)

後に、新紺屋町にも「勧工場」ができましたが、大正末期になって共に廃業となったそうです。

法政大学イノベーション・マネジメント研究センター発行の「ショッピングセンターの原型・勧工場の隆盛と衰退」の中に、東京市の勧工場数の推移を表にしたものがあります。

これを見ても、大正期に向かって急速に数が減っているのが分かります。

同センターの南亮一氏は、その原因をこう考察しています。
老舗や有名店にとっては出店するほどの魅力がなかったということであろう。
勧工場は、自前で店舗を出せない弱小業者の集まりになりがちであった。
勧工場が誕生した当初は、陶器や美術品、最新の雑貨類など、各地の有力な手工業者などが自慢の品を出品していたが、富国強兵政策のもとで我が国の工業化、大量生産化が進むにつれて新しく生み出された工業製品のうち、あまり品質のよくないものを仕入れて勧工場で売って稼ごうとする人が増えた。
次第に「勧工場物」とは品質が悪い商品の代名詞となってしまった
売れ行きが悪くなると価格競争が起きて価格が下落し、それが商品の質の低下に拍車をかけた。
正価販売は勧工場の特長のひとつだったはずだが、勧工場の店のなかには勝手に値引きして販売する者も現れた
店員の質も問題となった。
当時、老舗の小売店では丁稚として店で働き始めた若者に対し、年長者が商いをする上での様々な知識を伝えていた。
店舗は教育の場でもあったのである。ところが、勧工場の小さな売り場は、低賃金で雇われた者が一人で店番をすることが多く、十分な教育を受けることもないまま店を任されることが多かった。
若い店員たちは店員同士で無駄話をしたり遊ぶことが少なくなかった。
こうした店員の質の低さは人々の勧工場に対する印象を悪化させた
当然、こうした勧工場に対する評価の急速な悪化は勧工場内で商売してみようという小売業者らの意欲を削ぐことになり、館内で商売をしていた小売業者らの求心力をなくし、勧工場から有力なテナントがひとつまたひとつと抜けていった。」

これは東京の勧工場についての考察ですが、高崎でも似たようなことがあったのかも知れません。
思うに、勧工場自身の問題もあったでしょうが、一般商店の方も「勧工場方式」の良いところを取り入れて、人々の満足度を上げていったということもあったのではないでしょうか。

さて、その後の本町通りの変貌ぶりを見てみましょう。

【昭和三十六年(1961)の本町通り】

まだまだ櫛の歯は健在のようです。

【昭和四十七年(1972)の本町通り】

まだ元気ですよ。

そして現在。
【令和四年(2022)の本町通り】

仕舞屋(しもたや)が増え、空地や駐車場が増えて、櫛の歯もずいぶん欠け落ちてしまいました。
再び「櫛比の町」にするには、どうしたらよいのでしょう。
「人々の満足度を上げる」、これは古今問わず、商売繁盛や町活性化の変わらぬキーワードであるのでしょうが・・・。

本町に関する過去記事はたくさんあります。
この際ですから、ずらっと挙げときますか。
お時間のある時にでもどうぞ。
  ◇史跡看板散歩-11 高崎の根本・本町
  ◇本町今昔物語(1)
  ◇本町今昔物語(2)
  ◇本町今昔 蔵探し(1)
  ◇本町今昔 蔵探し(2)
  ◇本町今昔 蔵探し(3)
  ◇本町今昔 蔵探し(4)
  ◇本町今昔 蔵探し(5)


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タグ :本町勧工場


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2023年03月18日

高崎唱歌散歩-25番の続き ♪請地町より成田山・・・

請地町より成田山
不動明王縁日は
月の下旬の七八日
老若男女群集する

「威徳寺」の山号「慈応山」「成田山」になった経緯は、「更正高崎旧事記」に書かれています。
同駅本町平民後藤保五郎(旅館堺屋)ナル者、発起シ、下総国海上郡成田山新勝寺ヨリ、不動尊及二童子ノ古像ヲ請待シ、威徳寺ヘ成田山出張(でばり)ヲ設置セン事ヲ出願セシニ、是亦許可アリテ、乃チ同寺旧廟ヲ用テ不動尊ノ堂宇トセリ。」

「成田山出張」を設置した後藤保五郎という人は、「威徳寺」参道入り口で「堺屋」という旅館を営んでいました。

保五郎さんが何故そうしたのかまでは書かれていませんが、そもそも「威徳寺」は元藩主の祈願所で、檀徒衆がいる訳でもなく、寺を維持していくのは大変なはずです。
そこで名のある「成田山」の分院を勧請すれば参詣する人々で賑わい、檀徒も増えるのではないかと考えたのでしょう。

そんな保五郎さんの願いが叶い、明治十年(1877)五月、成田山不動尊の入仏が成りました。
しかし、そうすぐに効果が現れた訳でもなかったようです。
境内に建つ「中興開山 阿闍梨宥海之碑」にこう刻まれています。


(そも)當山ハ當市本町初代後藤保五郎成田山不動明王ヲ信仰スルコト深ク 同九年髙﨑城三ノ丸ヨリ城主ノ霊廟ヲ現地ニ移シ 下総ヨリ本尊ヲ勸請シ成田山出張所ヲ創設セシニ基ス
然レトモ業未タ草創ニ属シ 基礎確立セス前途ノ事業蓋シ尚尠(すくな)シトセス」

そこで、阿闍梨宥海(あじゃり・ゆうかい)が中興の祖として活躍することになるのです。
まずは宥海和尚の経歴です。
成田山光徳寺中興開山阿闍梨宥海和尚ハ 千葉縣印旛郡吉岡村松本儀左衛門ノ三男 安政四年四月八日生ル
十歳ニシテ千葉郡平山邨(むら)東光院宥正和尚ノ室ニ入リ 慶應三秊(年)得度ス 師ニ随テ四度加行ヲ修シテ 盛範阿闍梨ヨリ傳法灌頂ヲ受ケ 明治七秊(年)師跡東光院ヲ繼ク 同年髙照阿闍梨ヨリ三寶院流ノ秘奥ヲ傳フ
同九秊(年)照輪教正ノ徳ヲ慕ヒ成田山ニ到リ 薫陶ニ浴シ大ニ其ノ材ヲ識ラレ 選ハレテ同十七年當山ニ留錫ヲ命セラル
阿闍梨ハ 時ノ本山法主照鳳大僧正ヨリ㝡モ(最も)信任ヲ蒙リ 主任トシテ執行ヲ委任セラル」
ということで、本山の命により宥海和尚が「成田山威徳寺」に着任したのは、明治十七年(1884)のことでした。

さてそこから、様々な改革が始まります。
先ツ(まず)永代日護摩講ヲ組織シ 漸次ニ教線ヲ擴張シ境内地購入整理 大門道路買入修築 伽藍改増築ヲ行フ
同四十五秊(年)遂ニ埼玉縣ヨリ光徳寺ノ寺名ヲ移轉シ 爰ニ始メテ寺院公稱ノ宿志ヲ遂ク
次ニ奉賛會ヲ組織シ 會員千餘ヲ獲教勢愈盛ナリ」
護摩講を組織し、境内や参道を整備し、伽藍も増改築し、奉賛会員は千人を超えます。
さらに、埼玉にあった「光徳寺」という寺名を、明治四十五年(大正元年/1912)に移転したとあります。

実は「威徳寺」は、明治四十年(1907)すでに富岡「施無畏寺」(せむいじ)に合併され廃寺となっていたのです。



こうして「成田山威徳寺」「成田山光徳寺」となった訳ですが、宥海和尚の改革はまだ続きます。
昭和六年多野郡ヨリ阿弥陀堂ヲ移シ 髙嵜十職千餘名ノ奉スル聖徳太子ヲ本尊ニ加ヘ 太子ノ帝國學藝創設ノ洪徳ヲ唱讃ス」

その「太子堂」がこれです。


こんな経緯で、「成田山光徳寺」「月の下旬の七八日 老若男女群集する」までになりました。
昭和八年(1933)、宥海和尚の喜寿と在職五十周年を記念し、信徒たちによって「中興開山 阿闍梨宥海之碑」が建てられました。

その四年後の昭和十二年(1937)、宥海和尚は八十二歳で遷化されました。


合掌。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2023年03月11日

高崎唱歌散歩-25番 ♪請地町より成田山・・・

請地町より成田山
不動明王縁日は
月の下旬の七八日
老若男女群集する

現在の「請地(うけち)町」です。


もとは「赤坂村」「前請地」という字(あざ)でしたが、明治三十五年(1907)に「請地町」になりました。


「請地」という地名の由来はあまり定かではないようですが、田島桂男氏著「高崎の地名」には、こう書いてあります。
『請地』は『請田』と同じ意味と考えられる。
これは、小作を永く勤めあげた人に対して、地主がその労に報いるために、あがりのよい田を贈ることがあり、これを『請田』といった。
もう一つ、大地主から、誰かがある地域の田を引き受けてきて、働き手を手配し、田植えから収穫までをすることも『請田』といった。
したがって、地主から誰かがもらった田地、あるいは、誰かが耕作、作物の栽培、収穫を請け負った土地のことと考えられる。」

「高崎の散歩道 第十二集上」では、金井恒好氏が少し違う説を唱えています。
これは、中世の荘園時代に発生した地名ではなかろうか。
荘園の荘官・地頭・名主(みょうしゅ)などが、荘園領主(荘園の持ち主で、本所・領家ともいう)と契約して、毎年一定の年貢を納めることを請け負い、その代わりに、荘園の支配や管理一切の権利を任される制度や、その権利を持つ者を請所(うけどころ、うけしょ)といった。
この仕組みにとって、請所、つまり荘官・地頭・名主などに年貢を取り立てられて支配された土地を、『請地』といった。(略)
請地の権力を強めた者は、鎌倉中期以後は地頭が、室町になると守護が、室町後期になって百姓の力が増大すると名主や百姓が請所の権利を握るようになった。
これを地下請(じげうけ)、百姓請、村請などといい、土地によっては、農民の手で村を管理する力が強まった。(略)
推測であるが、もとは赤坂荘全体が請所の支配下(請地)にあったが、荘園時代が衰え、請所制度がくずれていく過程で、ここだけ遅くまで請所の支配が残っていたのか、あるいは、百姓請が根強く残っていたのか。
他の土地は、それぞれ特色ある地名が育って行っても、ここだけは昔の制度が地名として名付けられて残ったのかも知れない。」

「前請地」の南に接していたのが字「町浦」ですが、やはり明治三十五年(1907)に「成田町」になりました。

「町浦」「町裏」で、本町の裏っ側だからですね。

その「町浦」にある「成田山」が町名の由来となりました。

現在の寺名は「光徳寺」ですが、上の地図では「威徳寺」となっています。

「威徳寺」は高崎城内にあった、大河内家の祈願寺です。


その「威徳寺」の由緒と「町浦」に移された経緯が、「更正高崎旧事記 五巻」に載っています。
服部権云、威徳寺ハ旧城内三丸坤(ひつじさる:西南)方ニアリテ、旧領主大河内家累世ノ木主(もくしゅ:霊牌)ヲ安置シ、且輝貞朝臣ノ世ニ当リ、五代将軍常憲院殿ノ特恩ヲ以テ、報恩ノ為メ該寺ニ一(ひとつ)ノ廟宇ヲ建築セラレ、霊牌ヲ安置シ奉リ、頗ル輪奐(りんかん:広大で壮麗)ノ美ヲ尽シ、尊重セラルゝ事啻(ただ)ナラズ。
然ルニ王政復古廃藩置県ノ時ニ際シ、旧城郭一円、陸軍省所轄トナルニ拠リ、其時ノ住持手塚良覚、明治九年(1876)六月中、高崎駅接壌北ノ方、赤坂村第三十六番地梶山氏持地ヲ卜(ぼく:吉凶判断)シ、耕地ヲ変換シテ清潔ノ地トナシ、爰(ここ)ニ移転セン事ヲ出願セシニ、速ニ許可アリタリ。」
城内が陸軍所轄になったので、明治九年(1876)に移したという訳です。

いま「威徳寺の内陣」が高崎市指定重要文化財となって、境内に残っています。
最近、近くまで行って見ることができるようになりました。


「威徳寺」の山号は「慈応山」だったんですね。

この後「慈応山」「成田山」に、「威徳寺」「光徳寺」に変わっていく訳ですが、ちょっと長くなりそうなので、次回へ送ることに致しましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2023年03月04日

高崎唱歌散歩-番外編 大橋町の和泉庄御殿

大橋町「和泉庄(いずしょう)御殿」のことが、上毛新聞に載りました。


過日、見学の機会を得、ブログへの掲載も快くご承諾頂きました。
ただ、あまりにも技術的・美術的見どころ満載の建物で、とてもとても私ごときの知識と語彙力では表現することができません。
そこで、評価は皆さんご自身にお任せしたいと思い、スライドショーにしてみました。
ご覧ください。


吉田家当主は代々庄八を名乗っていますが、初代は南蛇井生まれで「荘八」と書いて「しょうはち」と読ませ、元紺屋町の商家で修行の後、田町に店を構えたのだそうです。

屋号「和泉屋」「庄八」なので通称が「和泉庄」(いずしょう)、その五代目・庄八が接待用に建てたのが「吉田御殿」とも「和泉庄御殿」とも言われるこの建物です。

五代目・庄八の略歴が、昭和三年(1928)発行の「人事興信録」に載っています。

五代目は先代の弟だったんですね。
16歳の時に家督を継いだというんですから驚きです。
あれ?と思うのは、「金融業」となっていることです。

明治三十年(1897)の「高崎繁昌記」では、「和泉屋」の主は吉田啓三郎の名前になっています。

この人が先代なんでしょうね。

家督相続をした明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」では、啓三郎庄八の連名になっています。

でも、「金融業」とは書いてありません。

金融に関係するとすれば、明治三十一年(1898)に設立した「高崎銀行」の設立者の中に、吉田庄八の名前があります。

これが五代目・庄八だとすると十歳ということになります。
まさかですよねぇ。
「人事興信録」には、五代目・庄八を継ぐ前は「佐太郎」という名前だとありましたし・・・。
分かりません。

「佐太郎」といえば、昭和四十二年(1967)に田町の長老たちが集まって「田町昔ばなし座談会」というのをやってるんですが、その席で佐太郎さんのエピソードが語られています。
いくつか抜粋してみましょう。(多少、編集しています。)
佐々木 佐太郎さんって人は、よっぽど変わっていたんですね。
織茂 とにかく珍談続出で、一時間や二時間では語り尽くせないほど、いろいろの実話を聞いておりますけれどね。
佐々木 とにかく、電燈があのまわりの家には全部ついていたのだが、あの家だけはランプだったんだ。
織茂 早起きの家でね。
佐々木 正月のお元日には、近所へみんなダルマを配ったんだね。
田口 くれるんですがね、こっちはそれが迷惑でした。
佐々木 大晦日で、みんな夜、遅いでしょう。その次ぐ朝、早くドンドン戸を叩くんでね。
昔は、みんなヨロイ戸みたいな小さな窓が付いていましたね。
そこを開けると、そこへダルマさんをにゅっと出すんだね、黙って。
織茂 梅山の親父さんが古着屋の小僧さんだった頃、甚兵衛の材料になるものを何か持って来いって。四時だよ、四時に持って来いって。
それで玉田寺の四時の鐘が鳴り終わるのを待って木戸を開けて「ごめん下さい」って入って行ったら、とても機嫌がよくてね、「お前は実に頭がいい。四時の金を背負って入って来た」と言って、後ですぐ番頭さんが三宝に金田の饅頭を百五十個載せて持ってきたんですってよ。
佐々木 気に入ると米一俵でもくれてやったんだから・・・。
織茂 子どもがお堀へ落っこったんですね。それで、運送曳きが抱き上げてみたら、これは和泉庄の坊ちゃんだ、大変だってんで、運送車に乗せて引っぱってきて、「坊ちゃんがお堀に落っこったんで連れてきました」って言うと、「この野郎、ふてえ野郎だ。おらあちの倅だと思って、おべっかいにおべんちゃら使いやがって。さっさと米一俵持って帰りやがれ」ってんで、番頭に米を背負わせて持たせてやったってんだね。
片山 これは黙って取っておけばいいんですけれどね。礼に行くと・・・。
織茂 また、取り返されちゃうんだ。
片山 持って行かれちゃうんです。
【発言者】佐々木芳治郎(一丁目区長)、織茂利一(オリモ洋服店社長)、
     田口小次郎(田口タンス店社長)、片山弘(テーラー片山社長)


ま、豪快な人だったようですが、いいものを残していってくれました。

「和泉庄御殿」をこれからどのように残していくのか、多くの課題がありそうですが、クラウドファンディングという良い仕組みもあるので、行政と市民が知恵を出し合って守っていけたらと、切に切に思っております。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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