2023年01月28日

高崎唱歌散歩-21番の続き ♪長松恵徳両寺院・・・

坂を上りて赤坂町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町

「長松寺」と中山道を挟む感じで「恵徳寺」があります。
暫くぶりで来たんですが、だいぶ参道の雰囲気が変わりましたね。


石仏が並んでお出迎えです。

「菩薩岳(ぬれ菩薩)」とあります。


墓地入り口にも、立派な石仏がたくさん並んでいます。
多くは観音さまですが、不動明王もいます。

あれ?
この辺に「しょうづかばば」の石像があったはずなんですけど、無くなっちゃいましたね。

この鐘楼も前はなかったです。

鐘を撞くには厳しいお定めがあるようで。


いろいろ変わってるので、ちょっと気になって確認したくなったお墓があります。
ひとつは一路居士・馬場一郎のちょっと変わったお墓。

もうひとつは小栗上野介の隠し金を手に入れたという飛騨屋・岩崎源太郎のお墓です。

どちらも、以前と同じ場所にあったのでホッとしました。

赤坂側の参道にも石仏がずらっと並んでいます。


その中に、「閻魔さん」と仲良さそうに肩を並べた「しょうづかばば」がいました。

右側が「しょうづかばば」です。

多くの人の咳を止めてあげたのでしょう、すっかりお顔が磨り減っています。

参道入り口の築地塀に、寺の由緒を書いた石板が埋め込まれています。

「井伊直政が伯母のために箕輪の日向峰に創立、直政が高崎に移った時に城北の榎森に移し、酒井家次が現在地に移した。」ということで、おおよそ「高崎志」(寛政元年/1789)によるものと思われます。

これが「高崎寿奈子」(宝暦五年/1755)では、若干異なっています。
「井伊直政が箕輪矢原に一宇を開基して恵徳寺と号し、直政が高崎に移る時に寺も日向峰という所へ移り、その後今の所へ寺を造立する。
日向峰は今の熊野小路御給人屋敷の辺である。」

ということで、「日向峰」は箕輪ではなく、高崎の本町一丁目から高崎神社への道沿い辺りらしいのです。

さらに、「更正高崎旧事記」(明治十五年/1882)の「赤坂町」の項に、「恵徳寺旧記」によるとしてこう書かれています。
此旧記ニヨレバ、(それまでは竹藪だった)寺場ヲ開墾ナシ続テ人家モ立並、給人衆ノ居住アルヲ以テ町名(給人町)トス。
後、給人衆ハ日向峯ヘ引移サレタルト云。(略)
(さて)日向峯ハ今ノ覚法寺ノ辺也。」

築地塀の石板には、「高崎という地名は恵徳寺の永潭和尚が井伊直政に進言した」とも書いてあります。
このことについては、過去記事にたっぷり書いてありますので、そちらをご覧ください。
  ◇駅から散歩 観音山(6)
  ◇駅から散歩 観音山(7)
  ◇駅から散歩 観音山(8)

あぁ、21番の歌詞は、まだ半分しか進んでません。
「北に曲れば三国道 四ッ谷相生住吉町」は、また次回へ繰り越しですね。


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Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2023年01月21日

隠居の控帳 忘れやすい動物で・・・

人のうわさも 七十五日。
戦のこわさは 七十八年。





  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2023年01月14日

高崎唱歌散歩-番外編 長松寺の石澤久夫作品

「長松寺」山門にある、石澤久夫氏作の石碑。

銘板の「吾唯知足 足る足らざるは心にある」は、如何にも石澤氏らしい言葉です。

石澤久夫氏をご存じない方もいらっしゃるでしょうか。

私が石澤久夫氏に初めてお会いしたのは、12年前に江木町の敬西寺で行われたJAZZライブでした。
  ◇土徳のご縁から

その後も何度かお会いする機会を得たのですが、ある時「長松寺の襖絵も描いたんだよ。」とお聞きして見に行ったことがあります。
平成二十六年(2014)の九月でした。
それは、本堂の須弥壇を挟んだ左右の間の襖に描かれていました。


「自然の説法」対話 朝~昼(静寂の哲学)という題が付いています。

面白いのは裏面です。
一見、海面に突き出る岩を描いているように見えますが・・・、


海に見えたのは、たくさんの女性の顔でした。

「人間帰化」現代千体人覚えの書(女面の図)という題が付けられています。

その西面の襖絵は至極シンプルで、題は「地中訓」です。


須弥壇西側の間の襖絵は、
「自然の説法」対話 夕~夜(静寂の哲学)

その裏面、
「人間帰化」現代千体人覚えの書(男面の図)

東面は、「天中訓」です。


本堂の西の壁面に絵画が掛かっていたので見ると、これも石澤氏の作品で「集まる人々」という題が付いていました。


山門の石碑は平成二十七年(2015)の作品ですが、その年の上毛新聞にこんな記事が載っていました。


今回伺ってその油彩画も写真に収めたかったのですが、ちょうど額装に出しているところだそうで、見ることができませんでした。
その代わりというと変ですが、たしか以前訪ねた時は無かったと思う「忠長自刃の間」の襖絵が、石澤氏の作になっていました。



平成二十九年(2017)二月、巨匠・石澤久夫氏は八十四年の生涯を全うしました。
いま、「長松寺」墓地のいかにも石澤氏らしい墓石の下で、安らかに眠っています。


合掌。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2023年01月07日

高崎唱歌散歩-21番 ♪坂を上りて赤坂町・・・

坂を上りて赤坂町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町

「群馬県営業便覧」で見る、明治三十七年(1904)の赤坂町です。

意外なのは、「木賃宿」とか「旅人宿」とかが多いことです。
8軒もの宿が並んでいます。
それと、お菓子屋さんが4軒もあります。
いずれのお菓子屋さんも宿の近くにあるというのは、何か意味がありそうです。

町の中ほど、旧中山道を挟んで北に「長松寺」、南に「恵徳寺」(営業便覧に威徳寺とあるのは間違い)があります。
「長松寺」の隣には「高崎北尋常小学校分教場」と書かれています。
「北尋常小学校」は、児童数が増えた「高崎尋常小学校」の分校として明治三十三年(1900)請地町(うけちまち)に開校しますが、そこに収容しきれない児童のために充てたのが「長松寺」の分教場でした。

ところが、当時は貧困のため就学できない児童が多かったようで、とくに女子の多くは家事に従事しているか、子守奉公に出されていたと言います。
「高崎市教育史 上巻」には、こんな記述があります。
当時、赤坂町の長松寺は、高崎市北尋常小学校の仮分教室として使用されていた。
寺内では、毎日、北小学校の児童たちが勉強しているのであるが、境内では、いつも数人の子守が、あるものは赤ん坊を背負い、あるものは幼児を連れて遊んでいる。
その言動を見るとまことに粗野であるから、知らず知らずのうちに幼児に悪影響を及ぼし、また、子守自身の将来にとっても良くないことは明らかである。」

その状況を見ていた長松寺住職・山端息耕(やまはた そっこう)は、北小学校校長・小林茂と協力して、明治三十六年(1903)分教場内に「樹徳子守学校」を開校します。

同校の基本方針は、
「お守り第一」(幼児を大切にすること)
「勉強第二」(幼児の機嫌のよい時に勉強する)
だそうです。

義務教育の普及により子守児童も減少してきた昭和十四年(1939)に「高崎樹徳学校」と改称しますが、昭和十九年(1944)に閉校となります。

その校舎は昭和十六年(1941)に創設された「日の丸保育園」の園舎としても使用され、平成十三年(2001)に閉園された現在もその姿は残されています。




ふと山門の足元を見ると、こんな石碑がありました。

サインを見ると、あの石澤久夫氏の作でした。
そうだ、「長松寺」石澤氏の菩提寺でした。
なので、寺には石澤氏の作品がたくさん残っています。

引き返してその写真を撮らせて頂いたので、次回、ご覧頂くことといたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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