2022年12月31日

高崎唱歌散歩-20番 ♪畝傍の橋をうち渡り・・・

畝傍の橋をうち渡り
赤き御堂は観音堂
和田の三石その一つ
大師の石はここにあり

「畝傍の橋」は、「神武天皇遥拝所」「得利稲荷」の間に架かっていた橋です。

右端に写っているのが、「得利稲荷」の鳥居でしょう。

「神武遥拝所」側から「畝傍橋」を渡ると、「得利稲荷」「長松寺」の間の坂道「神武坂」に出る訳ですが、下って南に行くと赤い御堂の「観音堂」があるという歌詞です。


この「観音堂」は今「恵徳寺」の参道に移されています。
過去記事でご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-116 赤坂町十一面観世音

ですが、そもそもこの「観音堂」はどういう由緒のものなのか、それが書かれている資料にはあまりお目に掛かったことがありません。
僅かに、参道に建つ「十一面観世音」碑に刻まれているくらいです。


碑文を書き出してみましょう。
十一面觀世音由來
大同元年ノ創立ニシテ上野国三十三番靈場札所ノ一也
古來由緒アル武将守本尊ナリト傳フ 建暦二年和田義盛
没落ノ時八郎義国相州葛西谷ヨリ落ト云シ本郡和田
山ニ來住ス 寛喜二年當地ニ移住シ和田家一族亡靈菩提
ノ爲該佛堂ヲ再興シ尊像ヲ奉安ス天正十八年和田家滅亡
慶長三年城主井伊直政深ク之ヲ崇敬シ堂宇ヲ再建セリ
寛文十年以降明治維新ニ至ル迄落合家之ヲ尊崇ス 明
治四十二年恵徳寺ニ合併シ境内ニ奉安ス
昭和五年八月二日 恵徳寺第二十六世 須田達宗
寺世話人惣代 横山文四郎 国峰源三郎 淺見弁次郎
建設者 落合喜三郎 落合卯之吉
    落合義三郎 石澤カク
    落合松次

創立は大同元年(806)ということで、平安時代の初頭です。
大河で小栗旬の策謀に倒れた和田義盛の子孫が、一族菩提のために仏堂を再興したとあります。
天正十八年(1590)に和田氏が滅亡すると仏堂は荒れ、これを慶長三年(1598)に井伊直政が再建し、寛文十年(1670)以降明治維新までは落合家が守っていたと。
恵徳寺境内に移したのは、明治四十二年(1909)だったことが分かります。
高崎唱歌がつくられたのは明治四十一年(1908)ですから、当時は歌詞の通りまだ長松寺の西にあったんですね。

ということで、おおよそのことは分かったのですが、なぜ「落合家」というのが突然出てくるのか分かりませんでした。
それが偶々なんですが、他の調べ事をしている時に「上毛及上毛人」(昭和5年11月第163号)「高崎恵徳寺の観音について」(堀口熏治)という一文を発見しました。

その中に、「落合家文書」というのが出てきて、その経緯が書いてありました。
上野國群馬郡髙崎赤坂町十一面觀世音菩薩、是行基菩薩の御作なり。
往昔は上和田今の觀音塚の所に年久しく鎮座ありしに、佛詣の便り惡しき故、今の赤坂御門の處・往還の通りなる川御門の北の方森の内に移し奉る。
然るに御城主井伊兵部大輔殿の御時當城を廣く成し給ふに依て、通丁城内になるに付御堂を長松寺境内の脇、森の内に移し奉る。
此所に在事年來久し、實に落合和泉(武田信玄の家來なり、浪人して當地赤坂に住す)より三代の孫、愚祖七兵衛正重・深く尊像を崇み靈驗を蒙る事度々なり、則宮殿を寄付す。
又同苗權三郎正純信心日々に増し、境内の狭き事を悲み、御城主安藤對馬守殿へ奉願寛文十戌年境内を開き三間四面の御堂を造立し、同年三月十八日入佛供養し奉る(前通り兩側屋舗も其節出來するなり)
權三郎に兩人の子あり、長子七兵衛正信・益寿修覆を加へ石燈籠敷石等新に寄附す
次男武平正吉・御城主松平右京太夫殿へ奉願、元祿十四巳年銅屋根に再建立す、同十一月二十日入佛供養し奉り感應いよいよ多く、記すに暇あらず、
愚子心願有るにまかせ剃髪染衣の身となり、境内に住し尊像に奉仕すること數年なり、所々佛詣の善男善女驗機驗應冥機冥應其數多し。
 享保十五庚戌年六月 落合和泉五代孫
             俗名 落合武平正吉
             法名 得蓮社即譽夢覺

これを見ると、「十一面観音」像は上和田「観音塚」(どこでしょう?)という所に祀られていたが、参詣するのに不便な場所だったので、往還の通り沿い(後の高崎城赤坂御門の所)に移したようです。
現在の高崎郵便局の西、高松中学校のテニスコート辺りか。

しかし、高崎城を造る時に城内に入ってしまうので長松寺の西に移したということです。
落合氏は武田信玄の家来だったが、浪人して赤坂に住んでいたので、移って来た十一面観音を崇敬するようになり、代々守ってきたという訳なんですね。
五代目の落合武平正吉に至っては出家して境内に住んだというのですから、その信仰の篤さは尊いものがあります。

さて、その「観音堂」跡は現在どうなっているのでしょう。
「萬延元年覚法寺絵図」と比べてみると、意外なほど昔の道筋が残っていて、場所の特定ができるもんです。


「中村染工場」隣の空地が「観音堂」跡でした。


いま、その空地には住宅が建ち始めています。


次の歌詞に出てくる「大師の石」は、現在「高崎神社」境内にある「和田三石」のひとつ「立石」で、「観音堂」と一緒に移設されてきたものです。
  ◇和田の「立石(たていし)」

そうか、「立石」が急に重くなって動かなかったのは、井伊氏の立ち退き命令に和田氏の霊がゴネたということか・・・。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2022年12月24日

高崎唱歌散歩-19番 ♪並榎町より上和田町・・・

並榎町より上和田町
ここに鉱泉湧出す
神武天皇遥拝所
ここは桜花の名所なり

湧出していたのは、通称「奥の湯」と言われた「上和田鉱泉」です。


「神武天皇遥拝所」とその界隈のことは12年前に記事にしていますので、ご覧ください。
  ◇「神武坂」界隈
  ◇続・「神武坂界隈」

ところが、実はその記事で「上和田鉱泉」の場所を間違えてました。
その後入手した昭和三十六年(1961)の住宅案内図を見て分かったのです。

けっこう広い敷地だったんですね。

ご近所に「上和田鉱泉」をご存知の方がいて、ここにあったんだと教えて頂きました。


この水路に水車があって、それで鉱泉を汲み上げていたんだそうです。


それともう一つ、過去記事にも出てきますが「神武三階湯」というのがありました。

こちらの方は「草津鉱泉」となってますから、湯に草津の湯の花でも入れてたんでしょうか。

「神武三階湯」の場所は合ってたんですが、凹んでる左の家までが敷地で、その左端が風呂の焚口だったそうです。


「三階湯」全体の写真を見たことはなかったのですが、先日、高崎市歴史民俗資料館の大工原さんが「迷道院さんに見せたい絵葉書がある」と言って見せてくれたのが、この写真です。

おーっ!左端の三階建が「神武三階湯」ですね。
煙突も写ってます。
後ろの高台が「神武天皇遥拝所」です。
桜が満開のようですがカラーでないのが残念です。

で、無理やりカラーにしてみました。


今は幻の「上和田リゾートパーク」でした。



  


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2022年12月17日

隠居の控帳 浅脳・染脳・煽脳・戦脳・・・

自分の考えは、ほんとに自分の考えなのか?
疑え、疑え、疑え。





脳はときどき自分で洗おう。
ひとつの色に染まらぬように。

  


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2022年12月10日

高崎唱歌散歩-18番 ♪其外水利を応用し・・・

其外水利を応用し
染物業や製糸業
社名にしるき旭とて
日に増し造る国の富

常盤町・歌川町・並榎町には水路が沢山ありました。


その水路の水を利用していたのが、染物屋さんです。
明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」には、常盤町に2軒、歌川町に2軒の染物屋さんが載っています。

いま常盤町にある「中村染工場」も明治三十年(1897)創業ということですから、載っていてもよさそうなんですが、便覧が途中で募集中止になったようなのでそのせいかも知れません。

「中村染工場」が利用していたのは高崎城「遠構え」の水で、長松寺裏から神武坂を下ってくる水路です。


その水路はここで二本に分かれ、一本は南に曲がって「中村染工場」の裏を通ります。

今は暗渠になっていますが、昔はこの水路で染物を洗っていた訳です。
水路をずーっと辿っていくと、赤坂から下って来る道に出ます。

交差した水路はさらに南へ下っていきます。
あぁ、この角にあった公共栓は無くなっちゃったんだ。

聞けば、自動車がぶつかったんだとか。
こらっ!ですね。

さらに南へ辿ると、中央小学校の所に出ます。

水路はここから右に曲がってもう一本の水路と合流し、最終的に烏川に落ちることになります。

「中村染工場」の所から別れたもう一本の水路は、「美保酒類」の脇を通っていきます。


この水路を辿って行くと、「山田文庫」の脇を通って、赤坂から下って来る道と交差します。


道を渡った所に、かつては水車が回っていたらしいです。



さて次の歌詞、「社名にしるき旭とて」ですが。
これは、明治十九年(1886)茂木惣兵衛が地元商人の橋本清七、絹川嘉平二らと共に立ち上げた製糸所「旭社」のことです。
烏川沿いにありました。

絵葉書の写真では工場の姿はよく分かりませんが、高い煙突がシンボルです。
滔々と流れる烏川の水を動力源として利用した訳です。

「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)には「茂木製糸所」と改称していたのですが、商標にはちゃんと「ASAHISYA SEISHI」と標記されています。


「旭社」「茂木製糸所」の歴史については、過去記事でご覧ください。
前回の「小島鉄工所」とも大いに関係があるんです。
  ◇高崎の絹遺跡(第三話)

それにしても、昔の人は身近で小さな水力をなんと上手に利用していたものかと思います。

いま電力不足が深刻だと騒がれていますが、昔の人を見習って、小水力を利用した地産地消型の発電を普及させたいものです。
原発だけは、もう真っ平ご免です。


  


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2022年12月03日

高崎唱歌散歩-17番 ♪空にたなびく煤煙は・・・

空にたなびく煤煙は
常盤歌川並榎町
中に聳ゆる煙突は
地方に名高き鉄工場

その鉄工場が、歌川町「小島鉄工所」です。



明治四十三年(1910)発行の「高崎商工案内」には、こう記載されています。
沿革 當工場は文政六年(1823)の創業にして專ら農具 喰器等を製造し来たりたるに、世運の進歩に伴ひ明治二十二年(1889)より漸次に擴張し、蒸氣機關及だらい盤其他仕上げ器械を据附け、諸機械類ヲ製造販賣するに至れり
製造品目 車輪、製鑵(缶)、諸機械、建築用鐵物、鋤、鍬、鍋、釜
販路 長野、新潟、栃木、埼玉、東京、群馬の一府五縣及東北地方
電動力 十馬力
石油發動器 拾五馬力
一ヶ年製産額 八萬圓
職工 百拾名

「小島鐡工所200年史」によると、「九蔵町に居住する小林氏が下並榎村地内の筏場(いかだば)に吹場(ふきば:金属の精練場所)を設けて営業を始めた」とあります。
その創業はいつなのかというと、文化六年(1809)とされています。
社地にある「筏場稲荷」の石灯籠に刻まれている年を、創立年としているのだそうです。

「筏場」のことについては、「高崎志」(寛政元年(1789)川野辺寛著)にこう書かれています。
筏場ハ常盤町入口ノ木戸外ヲ云、烏川ヲ渡リ板鼻ニ行ク中山道ノ往還也、
此地ヲ筏場ト呼ブコトハ、昔信州本山ヨリ来ル材木ヲ、此河岸ニテ筏ニ組テ、江戸ニ下ス故ニ名ツク、(略)
右ノ方ニ船頭小屋五軒アリ、是昔本町ヨリ出シ置シ番人、或いハ筏士等ノ子孫也、今ハ渡守トナル、故ニ船頭ト呼トナリ、・・・」


明治四年(1871)に「筏場」「五軒町」(赤坂)下ノ町」の一部とを併せて出来たのが「歌川町」です。


12年前、この辺のことを記事にしていました。
  ◇煉瓦つながり

平成十六年(2004)につくられたお散歩マップもな、かなかいいです。
  ◇「赤坂・常盤・歌川めぐり」

小島鉄工所の歴史を、もう少し「200年史」から拾ってみましょう。
小島弥兵衛は天保十五年(1844)六月、吾妻郡原町(東吾妻町)の鋳物師小島七左衛門別家(分家)の由緒をもって、京都の真継(まつぎ)家から免許状を取得したことから、以後小島姓を名乗るようになった。
当時の鋳物師は梵鐘・半鐘・鰐口などのほか鍋・釜・鉄瓶・火鉢など日常品も造り、「鍋屋」の屋号もあった。(略)
明治二年(1869)に、三代目小島彌平(1853~1931)が十六歳の若さで家業の「鍋屋」を継いだ。
明治初年の内に、彌平は江戸時代以来の「鋳物師」(いもじ)の株を継承する高崎唯一の鋳物業者となった。
明治十七年(1884)、皇居二重橋造営に際し、設計者久米民之助氏の依頼により、橋桁及び装飾部を製造したことは、彌平がようやく頭角を現してきたことを示した。
彌平の鉄工所は、明治二十二年(1889)を重要な節目に、明治二十年代から三十年代にかけて、最初の大きな革新を遂げた。
地域のあらゆるニーズに対応する鉄工所は、地域産業の近代化の進展に対応して機械製品の生産への進出を図り、また、キューポラ導入をはじめとする日本鋳造業自体の近代化に対応して、工場・設備も近代化、機械化を推進していった。即ち、工場敷地を3000坪に拡張するとともに、主要工場を大規模で頑丈な煉瓦造りとし、その他工場を整然と配置した。
敷地内に煉瓦製造所が設けられ、煉瓦は自製された。」

「キューポラのある町」「鋳物の町」で有名な川口の鋳物職人の多くは、この「鍋屋」で修行した人達だったそうです。

大正五年(1916)の「髙崎市街全圖」を見ると、「小島鉄工所」の北方に「小島別邸」というのがあります。

ここが、13年前に記事にした五輪坂の名庭園「望浅閣」です。  

当時はすぐ崖下が烏川だったので、舟で乗付ていたようです。


歌川町で誕生した「小島鉄工所」は、花も嵐もあったであろう長い歴史を乗り越えて、昭和四十四年(1969)群馬八幡に新工場を建設して移転しました。
跡地には「パークレーン高崎」が、高崎唯一のボウリング場として残っています。


この辺、これからまだまだ変わっていくんだろうなぁ。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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