畝傍の橋をうち渡り
赤き御堂は観音堂
和田の三石その一つ
大師の石はここにあり
赤き御堂は観音堂
和田の三石その一つ
大師の石はここにあり
「畝傍の橋」は、「神武天皇遥拝所」と「得利稲荷」の間に架かっていた橋です。
右端に写っているのが、「得利稲荷」の鳥居でしょう。
「神武遥拝所」側から「畝傍橋」を渡ると、「得利稲荷」と「長松寺」の間の坂道「神武坂」に出る訳ですが、下って南に行くと赤い御堂の「観音堂」があるという歌詞です。
この「観音堂」は今「恵徳寺」の参道に移されています。
過去記事でご覧ください。
◇史跡看板散歩-116 赤坂町十一面観世音
ですが、そもそもこの「観音堂」はどういう由緒のものなのか、それが書かれている資料にはあまりお目に掛かったことがありません。
僅かに、参道に建つ「十一面観世音」碑に刻まれているくらいです。
碑文を書き出してみましょう。
十一面觀世音由來 | ||
大同元年ノ創立ニシテ上野国三十三番靈場札所ノ一也 | ||
古來由緒アル武将守本尊ナリト傳フ 建暦二年和田義盛 | ||
没落ノ時八郎義国相州葛西谷ヨリ落ト云シ本郡和田 | ||
山ニ來住ス 寛喜二年當地ニ移住シ和田家一族亡靈菩提 | ||
ノ爲該佛堂ヲ再興シ尊像ヲ奉安ス天正十八年和田家滅亡 | ||
慶長三年城主井伊直政深ク之ヲ崇敬シ堂宇ヲ再建セリ | ||
寛文十年以降明治維新ニ至ル迄落合家之ヲ尊崇ス 明 | ||
治四十二年恵徳寺ニ合併シ境内ニ奉安ス | ||
昭和五年八月二日 恵徳寺第二十六世 須田達宗 | ||
寺世話人惣代 横山文四郎 国峰源三郎 淺見弁次郎 | ||
建設者 落合喜三郎 落合卯之吉 落合義三郎 石澤カク 落合松次 |
創立は大同元年(806)ということで、平安時代の初頭です。
大河で小栗旬の策謀に倒れた和田義盛の子孫が、一族菩提のために仏堂を再興したとあります。
天正十八年(1590)に和田氏が滅亡すると仏堂は荒れ、これを慶長三年(1598)に井伊直政が再建し、寛文十年(1670)以降明治維新までは落合家が守っていたと。
恵徳寺境内に移したのは、明治四十二年(1909)だったことが分かります。
高崎唱歌がつくられたのは明治四十一年(1908)ですから、当時は歌詞の通りまだ長松寺の西にあったんですね。
ということで、おおよそのことは分かったのですが、なぜ「落合家」というのが突然出てくるのか分かりませんでした。
それが偶々なんですが、他の調べ事をしている時に「上毛及上毛人」(昭和5年11月第163号)の「高崎恵徳寺の観音について」(堀口熏治)という一文を発見しました。
その中に、「落合家文書」というのが出てきて、その経緯が書いてありました。
「 | 上野國群馬郡髙崎赤坂町十一面觀世音菩薩、是行基菩薩の御作なり。 |
往昔は上和田今の觀音塚の所に年久しく鎮座ありしに、佛詣の便り惡しき故、今の赤坂御門の處・往還の通りなる川御門の北の方森の内に移し奉る。 | |
然るに御城主井伊兵部大輔殿の御時當城を廣く成し給ふに依て、通丁城内になるに付御堂を長松寺境内の脇、森の内に移し奉る。 | |
此所に在事年來久し、實に落合和泉(武田信玄の家來なり、浪人して當地赤坂に住す)より三代の孫、愚祖七兵衛正重・深く尊像を崇み靈驗を蒙る事度々なり、則宮殿を寄付す。 | |
又同苗權三郎正純信心日々に増し、境内の狭き事を悲み、御城主安藤對馬守殿へ奉願寛文十戌年境内を開き三間四面の御堂を造立し、同年三月十八日入佛供養し奉る(前通り兩側屋舗も其節出來するなり) | |
權三郎に兩人の子あり、長子七兵衛正信・益寿修覆を加へ石燈籠敷石等新に寄附す | |
次男武平正吉・御城主松平右京太夫殿へ奉願、元祿十四巳年銅屋根に再建立す、同十一月二十日入佛供養し奉り感應いよいよ多く、記すに暇あらず、 | |
愚子心願有るにまかせ剃髪染衣の身となり、境内に住し尊像に奉仕すること數年なり、所々佛詣の善男善女驗機驗應冥機冥應其數多し。 | |
享保十五庚戌年六月 落合和泉五代孫 俗名 落合武平正吉 法名 得蓮社即譽夢覺 |
これを見ると、「十一面観音」像は上和田の「観音塚」(どこでしょう?)という所に祀られていたが、参詣するのに不便な場所だったので、往還の通り沿い(後の高崎城赤坂御門の所)※に移したようです。
※ | 現在の高崎郵便局の西、高松中学校のテニスコート辺りか。 |
しかし、高崎城を造る時に城内に入ってしまうので長松寺の西に移したということです。
落合氏は武田信玄の家来だったが、浪人して赤坂に住んでいたので、移って来た十一面観音を崇敬するようになり、代々守ってきたという訳なんですね。
五代目の落合武平正吉に至っては出家して境内に住んだというのですから、その信仰の篤さは尊いものがあります。
さて、その「観音堂」跡は現在どうなっているのでしょう。
「萬延元年覚法寺絵図」と比べてみると、意外なほど昔の道筋が残っていて、場所の特定ができるもんです。
「中村染工場」隣の空地が「観音堂」跡でした。
いま、その空地には住宅が建ち始めています。
次の歌詞に出てくる「大師の石」は、現在「高崎神社」境内にある「和田三石」のひとつ「立石」で、「観音堂」と一緒に移設されてきたものです。
◇和田の「立石(たていし)」
そうか、「立石」が急に重くなって動かなかったのは、井伊氏の立ち退き命令に和田氏の霊がゴネたということか・・・。