2022年08月27日

高崎唱歌散歩-4番 ♪若松町に光明寺・・・

若松町に光明寺
夢に名を得し愛染堂
豊川稲荷は龍広寺
坂を下りて藤花園

若松町にある「光明寺」、左側のお堂が「夢に名を得し愛染堂」です。



なぜ「夢に名を得し」なのかは、過去記事をご覧ください。

次に「豊川稲荷は龍広寺」ですが、龍広寺の山門を潜って本堂の左手前にあるのがその「豊川稲荷」です。

鳥居の扁額には「豊川吒枳尼天」と書いてあります。
お稲荷さんと「吒枳尼天(だきにてん)」との関係は、なかなかややこしいです。
書き始めると長くなるので、詳しく知りたい方はWikipedia「荼枳尼天」をご覧ください。

現在では「龍広寺」でお稲荷さんを連想する方は少ないと思うのですが、「高崎唱歌」をつくった頃は参拝に訪れる人が多かったようです。
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、こう書かれています。
寺内に陀枳尼天の堂あり、里人豊川稲荷と呼ぶ。
花柳社會の参拝者多し。」

さて次の歌詞「坂を下りて藤花園」は、おそらく皆さん、何のことだろうと思ったのではないでしょうか。
「坂」というのは龍広寺前の坂で、「車坂」と呼ばれていたそうです。

この坂を下ったところに、「藤の花の園」があったというのです。

「高崎の散歩道 第十二集下」を読んでみましょう。
『藤花園』は通称『藤だな』『馬場の藤』といわれた。
高崎藩士で教養人菅谷帰雲の門人馬場若水の家であった。
聖石橋のガソリンスタンドの裏の低地、今は住宅が密集していてその面影はないが、花の頃には茶店も出て、たまご、だんご、ところ天など食しながらの花見客でいっぱいになった。」

昭和三十六年(1961)の住宅地図を見ると、そのガソリンスタンドの近くに馬場姓の家もあります。


この辺から見ると、春には「藤花園」の藤の花がきれいに見えたんでしょうね。


「藤花園」の主・馬場若水については、「新編高崎市史」に高崎藩士とあるだけで、詳しいことは書いてありません。
何かに載ってないかと思って探してみると、平成二十二年(2010)発行の「群馬風土記(通巻101号)」に、草津町文化財調査委員の須賀昌五氏が寄稿した「馬場若水の漢詩」中に生い立ちが記載されていました。

それによると、若水は天明二年(1782)高崎藩の飛び地越後国一ノ木戸の郡奉行・馬場喜通(よしみち)の嫡子として生まれ、父の帰任により高崎に来たとあります。
「諱(いみな)は喜登(よしとみ)、字(あざな)は公淵(こうえん)、若水(じゃくすい)と号した。」というので、高崎藩分限帳にその名があるかと思って探したのですが、馬場姓の藩士は何人かいるものの、同じ名は見つかりません。

しかし、昭和三十四年(1959)根岸省三氏編「高崎人物年表」を見ると、また別の記載がありました。
「名は喜澄、通称大助、字公淵、高崎藩臣にして詩、画をよくし・・・」
通称「大助」とあるので、もういちど分限帳を見直すと、文字は違うのですが馬場大輔という名が何ヵ所かにありました。
この人が若水だとすれば、天保三年(1832)時点の役職は祐筆、石高は50石となっています。

因みに、若水さんはとても温泉好きな人だったようで、頻繁に各地の温泉を訪れては、そこで漢詩を詠んでいます。
いくつか抜き出してみましょう。
浴草津温泉
独浴温泉間暇辰 独り浴す温泉間暇の辰(とき)
横伸両足杲天真 横に両足を伸ばし天真を杲(あきらか)にす
莫言愚痴貧生命 愚痴を言う莫(なか)れ貧生に命ぜん
保養茲身奉二親 保養の茲(こ)の身二親に奉ずるを
気持ちよく入浴している幸せを感じ、両親に感謝し孝行しなくちゃという気持ちが湧いてきてるのでしょうね。

伊香保浴中作
温泉非療数年痾 温泉は数年の痾(やまい)を療(いや)すに非ずや
何好遅留繋帰騎 何ぞ好んで遅留し帰騎を繋ぐや
寄寓送迎皆薄俗 寄寓の送迎 みな薄俗
(湯宿の客の対応は薄情である)
去人吝嗇来人利 去る人は吝嗇に来る人は利なり
(去る客には出し惜しみ、来る客には喜んで迎える)
数年の病気療養のための温泉通いも、伊香保温泉にはあまりいい印象を持たなかったようですね。

歿年は「高崎人物年表」では天保五年(1834)、「馬場若水の漢詩」では天保九年(1838)となっています。


【「藤花園」推定地】



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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