前回は、関越自動車道の高い壁に突き当たった所で終わりました。
壁を突き抜けられないので、ちょっと迂回して高架下を潜ります。
中尾中学校美術部の描いた壁画が見事です。
染谷川沿いに400mほど行くと、新保田中町の「下沖橋」に至ります。
「実政街道」は右へ折れるのですが、前方に見える赤い橋が気になって、ちょっと寄り道を。
右前方に赤い鳥居が見えます。
赤い橋には「はちまんはし」と書いてあります。
この神社は「八幡(はちまん)神社」。
「上野国神社明細帳」によると、天正十八年(1590)に八幡村の「八幡社」から勧請したとあります。
「八幡橋」を渡って対岸へ行くと、小さな児童公園があって、道の端に何か建っています。
向こう側へ回ってみると、
「村社 八幡神社」という石標が建っています。
ということは、ここが神社への参道入り口なのでしょう。
それにしても、川を渡らないと神社へ行けないとは、変わってますよね。
実は、現在の「八幡神社」は川の左岸にありますが、以前は右岸にあったのです。
「新編高崎市史 資料編14」には、こんなことが書いてあります。
しかし本当にそうなのか、私はちょっと疑問を抱いています。
明治四十年の地図を見ると染谷川は神社の東側を過ぎるとほぼ直角に曲がって神社の南側を通っていますが、令和五年の地図では神社の北側からゆるーいカーブで神社の西側を通っています。
何が言いたいかというと、神社には手を付けずに川筋の方を変えたのではないかと思うのです。
神社のすぐ南側に一段低くなった土地があります。
私には、これが昔神社の南側を通っていた川筋の跡に見えて仕方ないのですが・・・。
さて、「村社 八幡神社」の石標の近くに、いろいろな石造物が並んでいます。
はっきりしているのは、この二つです。
とくに、文字塔が面白いでしょう?
一番上の字が、何とまぁ意味深な形で、おかしな想像力を掻き立てられますが・・・。
「道」という字だそうです。
「道祖神」なんですね。
これらも「染谷川」の改修工事によって、ここに移されたということです。
そうそう、「八幡神社」のそばで、素敵なCafeを見つけちゃいました。
ということで、今日はここまで。
壁を突き抜けられないので、ちょっと迂回して高架下を潜ります。
中尾中学校美術部の描いた壁画が見事です。
染谷川沿いに400mほど行くと、新保田中町の「下沖橋」に至ります。
「実政街道」は右へ折れるのですが、前方に見える赤い橋が気になって、ちょっと寄り道を。
右前方に赤い鳥居が見えます。
赤い橋には「はちまんはし」と書いてあります。
この神社は「八幡(はちまん)神社」。
「上野国神社明細帳」によると、天正十八年(1590)に八幡村の「八幡社」から勧請したとあります。
「八幡橋」を渡って対岸へ行くと、小さな児童公園があって、道の端に何か建っています。
向こう側へ回ってみると、
「村社 八幡神社」という石標が建っています。
ということは、ここが神社への参道入り口なのでしょう。
それにしても、川を渡らないと神社へ行けないとは、変わってますよね。
実は、現在の「八幡神社」は川の左岸にありますが、以前は右岸にあったのです。
「新編高崎市史 資料編14」には、こんなことが書いてあります。
「 | 染谷川の河川改修によって、川幅が約三倍になり、境内にかかるため、新保田中町村合557番地(川の右岸)から、村東33番地(川の左岸)に昭和五十八年に移転した。」 |
しかし本当にそうなのか、私はちょっと疑問を抱いています。
明治四十年の地図を見ると染谷川は神社の東側を過ぎるとほぼ直角に曲がって神社の南側を通っていますが、令和五年の地図では神社の北側からゆるーいカーブで神社の西側を通っています。
何が言いたいかというと、神社には手を付けずに川筋の方を変えたのではないかと思うのです。
神社のすぐ南側に一段低くなった土地があります。
私には、これが昔神社の南側を通っていた川筋の跡に見えて仕方ないのですが・・・。
さて、「村社 八幡神社」の石標の近くに、いろいろな石造物が並んでいます。
はっきりしているのは、この二つです。
とくに、文字塔が面白いでしょう?
一番上の字が、何とまぁ意味深な形で、おかしな想像力を掻き立てられますが・・・。
「道」という字だそうです。
「道祖神」なんですね。
これらも「染谷川」の改修工事によって、ここに移されたということです。
そうそう、「八幡神社」のそばで、素敵なCafeを見つけちゃいました。
ということで、今日はここまで。
【今日の散歩道】
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