2024年02月10日

追跡再開 実政街道(5)

ここまでずっと「不動寺」から「町田橋」を渡るコースを辿ってきたのですが、明治十八年(1885)の「陸軍迅速測圖」を見ると、そこに橋は架かっていないのです。
川を越えるとすれば水の中を徒渉り(かちわたり)することになります。

前橋へ行くのに、そのつど川を徒渡りするとは考えられません。
ということは「実政街道」の3つのルートのどれを選んでも、結局のルートに合流し「大橋」を渡って行ったのではないかと推測されます。

前回の「宝蔵寺」の西側道路を「井野川」へ向かうと、「ビューティ塚越」「辻田獣医科病院」の所へ出てきます。


そのちょっと下流に、「大橋」が見えます。


橋のたもとに、大きな碑が建っています。
「井野川改修工事竣功記念碑」です。


「高崎の散歩道 第五集」に興味深い話が載っています。
現在の井野川大橋は戦後の昭和二十八年(1953)に建設されたもので、その井野川改修記念碑が橋のたもとにある。
それ以前の井野川橋は木橋で、現在の辻田獣医科病院と塚越美容院の前あたりから斜めにかかっていた。」

橋が斜めに架かっていたというのは、地図で両岸の道を見ると想像できます。


その頃の写真がないかなぁと思って探してみると、国土地理院の空中写真の中にありました。

昭和二十三年(1948)のもので、まだ環状線は通っていません。
「実政街道」の3つのルートも写ってます。

現在の「大橋」は、平成四年(1992)に新しくなりました。


なかなかオシャレです。


「井野川」の正体は、龍の化身「おいの」だったんですね。

田島桂男氏著「高崎の地名」には、こんなことが書かれています。
井野の名は井野川からとったのであろうか。
町の北部、字屋ノ上には三つの湧水池があって、ここのまわり一帯は低く平らな地形になっている。
また、字天神には泥炭池があって、ここからは、弥生時代の木製品が発見されている。
井野の名のいわれは、湧水のあるこのような地形からきたものではあるまいか。
とすると、「井野」が先にあって、そこを流れる川ということで「井野川」と呼ばれるようになったのではないかと考えられる。」

さて、次回は「井野川」を渡って、その先を辿ることに致しましょう。


  


Posted by迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪...続・実政街道