2019年01月13日

史跡看板散歩-124 日高町の聖蹟碑

旧17号を前橋方面へ向かい、関越自動車道を潜った先に「きものや シモン」という、えらく目立つ看板があります。


今回の史跡「聖蹟碑」は、その左に写っている小さな公園の中にあります。




碑には漢文でこう刻まれています。
  明治十一年戊寅九月
今上巡幸北陸二日車駕入群馬縣四日臨幸厩橋治廳以日高村當輦道新相地架屋以爲駐駕之處後村民相謀建石欲使聖蹟不歸於湮滅蓋新道通高崎一線稱御幸道者此得名云乃屬余紀其事余奉職本縣不辭而書之
 明治十四年十一月三日
     群馬縣令從五位 楫取素彦撰竝書

明治天皇がどんな所で休憩したのか興味がありますが、昭和十五年(1940)群馬県発行の「明治天皇聖蹟志」にけっこう詳しく書かれています。
一、 福島權次郎持地畑地凡(およそ)四拾坪借上ケ 其内ニ御座所四坪 臣下ノ控所拾坪假建後 通リ葭簀圍ヒ(よしずがこい) 前四ツ目垣結建ノコト
外ニ御便所四尺(1.2m)四方掘立 廻り葭簀 屋根杉皮葺 漏斗取付ノコト
二、 日高村ニ於テハ 先發官指定ノ外私費ヲ投ジ 御建屋及御便所雨宿四ヶ所 御建屋裏垣ヲ新築シ 御小休及供奉員ノ御休憩ニ供ス
三、 九月三日(前略)高崎驛行在所ヘ着御(ちゃくぎょ:到着) 御晝(昼)食畢(終わり)テ御發車 日高村ニ於テ御小休(福島權次郎持地御小休所官設)云々(北陸東海兩道巡幸日誌)午後一時八分日高村ニ至ル 區長柴田藤次郎等林下ニ假葺セシ小亭ニ就テ御小休

畑の中に建てた仮小屋だったんですね。

「聖蹟碑」を建てた理由についても書かれています。
かくの如く、本御小休所の建物は臨時の御假屋なりししかば、日高村民は御遺蹟の早く湮滅せんことを慮(おもんばか)り、明治十四年十一月楫取群馬縣令の撰竝(ならびに)書に成る聖蹟碑を建設して、之れを不朽に傳へたり、斯(かく:これ)は實に本縣下に於ける聖蹟碑の嚆矢(こうし:最初)なり」

時は過ぎて昭和天皇の御代となり、昭和九年(1934)陸軍特別大演習が群馬県で行われるにあたり、「聖蹟碑」の建つ場所が整備されます。
昭和九年十一月陸軍特別大演習の本縣内に擧行せられ、地方行幸の事あるや、此曠古(こうこ:今までにない)の光榮を記念せんが爲、既設の聖蹟碑を中心に八拾坪の地を買収して村有となし、北及西の村道添には玉垣、東と南との小川邊には石垣を築造し、中に松杉棕櫚等數十株を栽植して風致を添え、又國道より通用道路を新設し、入口に標識石柱を建て、更にこの保存施設を記念するが爲、傍らに一碑を建設したり。
撰文は群馬縣屬吉澤澄治なり。」

吉澤澄治撰文の碑というのがこれです。


この石碑を建てたのは「新高尾村」となっていますが、日高村は、明治二十二年(1889)新保村新保田中村中尾村鳥羽村との合併で、新保の「新」日高の「高」中尾の「尾」をとって「新高尾村」となりました。

余談ですが、この時「鳥羽村」の文字が含まれなかったことが面白くなかったのか、「新高尾村」が昭和三十年(1955)高崎に合併する時、「鳥羽村」だけは前橋と合併したんだとかいう話です。
「旧日高村」は、この時「日高町」になりました。

その後「聖蹟碑」の地は、昭和十五年(1940)の紀元二千六百年記念行事として玉垣を修築したり記念樹を栽植したりしています。
80年近く経った現在も、ほぼその時の姿が残っているというのは、すごいことです。


因みに、昭和九年(1934)当時の旧高崎市の「聖蹟」は、こうだそうです。


天皇が神様だった時代でした。


【日高町聖蹟碑】