
このお寺、「寺院明細帳」では開基・創建由緒不詳となっていますが、代々名主の志村家で所蔵する享保十九年(1734)の文書には、開基は志村家の祖・監物尉挙尊(けんもつのじょう・よそん)で、開山は正和元年(1312)と記されています。
志村家とは、前回の記事で「山王の猿」のことを教えて頂いた、あの志村繁夫さんのお宅です。
志村繁夫さんの曾祖父は、志村彪三(ひょうぞう)という人です。
この人は、「三国街道 帰り道(7)」の中で、「中野秣場騒動」の仲裁役として一度登場しています。

彪三氏は、弘化三年(1846)に棟高村で生まれ、16歳にして亡父の跡を継いで名主になっています。
その後、区長、村会議員、県会議員、そして初代・堤ヶ岡村長も務めています。
特に、争いごとの仲介に長けていたようで、明治二年(1869)中里村と足門村の水争い、明治十二年(1879)天狗岩堰の紛擾、そして明治十四年(1881)前述の「中野秣場騒動」など、いくつもの紛争の和解に力を発揮しています。
そんなこともあってか、村人からは畏敬の念を以って、「志村様」とか「おや玉」とか呼ばれていたそうです。
また、彪三氏は教育にも力を入れた人物で、明治五年(1872)に学制が頒布されるや、いち早く大乗寺を仮校舎として「発育小学校」を創設します。
この時の教頭が「中野秣場騒動」の大総代・真塩紋弥ですから、何とも皮肉というか、彪三氏が仲裁役を買って出た所以だったのかも知れません。

そこで、新たに学校用地を求めて新校舎を建設することになります。
ここが、現在の「堤ヶ岡小学校」です。
その二年後に、この小学校の教師になったのが、山村暮鳥という訳です。
今回もまた、過去記事に登場した人物が、みな繋がり合っているということに、何とも不思議な思いを致しました。
郷土の点を線でつなぎ、線と線を結んで面にする。
そこに、歴史観光都市のヒントがあるような気がします。
(参考図書:「堤ヶ岡村誌」、「ぐんまのお寺」)
【大乗寺】