2010年03月17日

三国街道 帰り道(13)

「山王の猿」の前から少し南へ行くと、「大乗寺」があります。

このお寺、「寺院明細帳」では開基・創建由緒不詳となっていますが、代々名主の志村家で所蔵する享保十九年(1734)の文書には、開基は志村家の祖・監物尉挙尊(けんもつのじょう・よそん)で、開山は正和元年(1312)と記されています。

志村家とは、前回の記事で「山王の猿」のことを教えて頂いた、あの志村繁夫さんのお宅です。

志村繁夫さんの曾祖父は、志村彪三(ひょうぞう)という人です。
この人は、「三国街道 帰り道(7)」の中で、「中野秣場騒動」の仲裁役として一度登場しています。

彪三氏は、弘化三年(1846)に棟高村で生まれ、16歳にして亡父の跡を継いで名主になっています。
その後、区長、村会議員、県会議員、そして初代・堤ヶ岡村長も務めています。

特に、争いごとの仲介に長けていたようで、明治二年(1869)中里村足門村の水争い、明治十二年(1879)天狗岩堰の紛擾、そして明治十四年(1881)前述の「中野秣場騒動」など、いくつもの紛争の和解に力を発揮しています。
そんなこともあってか、村人からは畏敬の念を以って、「志村様」とか「おや玉」とか呼ばれていたそうです。

また、彪三氏は教育にも力を入れた人物で、明治五年(1872)に学制が頒布されるや、いち早く大乗寺を仮校舎として「発育小学校」を創設します。
この時の教頭が「中野秣場騒動」の大総代・真塩紋弥ですから、何とも皮肉というか、彪三氏が仲裁役を買って出た所以だったのかも知れません。

「発育小学校」創立当初の児童数は三十数名でしたが、その後「棟高小学校」、「西群馬第十一小学校」、「棟高尋常小学校」、「堤ヶ岡尋常小学校」と変遷する内、明治三十年(1897)には児童数二百五十余人と増えていきました。
そこで、新たに学校用地を求めて新校舎を建設することになります。
ここが、現在の「堤ヶ岡小学校」です。
その二年後に、この小学校の教師になったのが、山村暮鳥という訳です。

今回もまた、過去記事に登場した人物が、みな繋がり合っているということに、何とも不思議な思いを致しました。

郷土の点を線でつなぎ、線と線を結んで面にする。
そこに、歴史観光都市のヒントがあるような気がします。

(参考図書:「堤ヶ岡村誌」、「ぐんまのお寺」)


【大乗寺】





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Posted by 迷道院高崎 at 07:26
Comments(9)三国街道
この記事へのコメント
迷道院様、拝読させて頂きました。
志村彪三氏、真塩紋弥、山村暮鳥。不思議な結び付きですね。点から線そして面へ。
迷道院様の取材の成果が着々と上がってますね。大乗寺も1312年開基と古刹みたいですが、宗派はどちらでしょうか?ちょっと興味があります。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年03月17日 19:45
追記です。
今日、和田橋の所を通って思い出したのですが。昔、和田橋の西詰の建設省の建物の北側にスタンドがあってその裏の河岸の小高い所に祠の様なものがあったと記憶してるんですが、迷道院様はご存知ですか。車で走りながらふと疑問がわきました。ちなみに今そこはきれいさっぱりなにもありません。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年03月17日 19:54
>柏木沢の農家おじさん様

本当に不思議なつながりがあるものだと思っております。
後世に名を残す人は、やはりそれなりの使命を帯びて繋がっているのでしょうか?

大乗寺は、真言宗です。
如意山宝蔵院という、なかなかの山号と院号ですよね。

ところで、お尋ねの和田橋の所の祠ですが、和田橋の西詰ですか?東ではなくて。
いずれにしても記憶にないんですよねー。
記憶力抜群の昭和24歳さんなら憶えてるかなぁ?

もし、東詰であれば、高崎城の前の和田城があった所で、「興禅寺絵図」に二ノ宮とか、御霊とか書かれていますので、その名残かも知れません。
あるいは、昭和40年前後にレストランがありましたので、そこの屋敷稲荷でしょうか?

きっと、このコメントのやり取りを見て、ご存知の方が現れるのではないかと思いますので、ご協力をお願いしておきましょう。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月17日 21:07
真言宗でしたか。こちらでは曹洞宗や天台宗が多いですが関西方面では真言宗や浄土宗、真宗が多いらしいですね。 和田橋は東詰でした。おっちょこちょいなもんですみません。確かガソリンスタンドの後レッドロブスターだった記憶があります。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年03月18日 06:45
>柏木沢の農家おじさん様

あぁ、レッドロブスターのあった所ですね。
子どもの頃、あの崖下辺りはいい遊び場でしたが、崖上はあまり行かなかったのかなぁ?
きっと、まだそういうものに関心が無かったんですね(^^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月18日 07:05
深~い庶民の歴史があり、人と人のつながりが
見えてくるのはすごいですね。

自慢じゃないけど地理オンチ、方向オンチでして・・・(よくそれで運転してるね!と言われそうですが^^;)
お陰さまで高崎の地理が少しずつわかってきて・・・うれしいです^^。
Posted by 風子  at 2010年03月18日 16:18
そうですか、あの辺は迷道院様の遊び場でしたか。
実はあそこは私のお気に入りの高崎の風景のひとつだったんですよ。
恐縮ながら、私の好きなその他の風景を列挙させてください。
飯塚町の佐藤医院の母子のモザイクの壁画。同じく飯塚町の追分けの道祖神のあたり。本町から赤坂に降りてゆく所の坂道。本町3丁目のT字路突き当たりのコカコーラの大きなトタン看板(今はもうないです。ブロンコがあった所です。)考えて見たらみんな三国街道沿いですね。\(^0^)/
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年03月18日 18:48
>風子さん

風子さんだけに内緒でお教えします。
実は、私もひどい方向オンチです(^^)
今の家に引っ越したての頃、散歩に出て家に帰れなくなったことがあります。
車には、もちろんナビが載ってますが、それでも道をよく間違えます(T_T)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月18日 20:18
>柏木沢の農家おじさん様

おー、みんな分かりますね。
私が子ども時代を過ごしたのは、本町一丁目から南へ行った、高崎神社の近くです。

あの頃カメラを持っていたらなぁと、今つくづく思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月18日 20:31
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