2010年02月24日

三国街道 帰り道(6)

ちょいと用事が重なり、投稿に間が空いてしまいました。

棟高観音寺を後に「堤下公園」まで来た所で、確かこの辺に真塩紋弥の碑があるということを思い出しました。
真塩紋弥は、「切干塚」の不思議にも登場した人物です。

「堤下公園」の信号を西に入ってすぐの三叉路に、「真鹽紋彌翁之碑」は建っていました。

真塩紋弥は、天保九年(1838)稲荷台に生まれ、後に三ツ寺に移ります。

幼い頃から学問を好み、十九歳の時、江戸下谷成島図書頭(なるしま・ずしょのかみ)の塾で漢籍を学び、文久三年(1863)三ツ寺に戻って私塾「芳叢(ほうそう)書院塾」を開きます。

明治六年(1873)に設立された、棟高小学校最初の正教員就任を機に塾を閉じますが、その間に三百数十人という多数の門弟を輩出しています。
この碑は、大正二年(1913)に門弟たちが建てた顕彰碑です。

真塩紋弥といえば、明治初期に起きた「中野秣(まぐさ)場騒動」を書かない訳にはいきません。
が、これがなかなかややこしい話なんです。

そもそも、「中野秣場」とは何だという話です。
箕郷町から榛東村にかけた、榛名山東麓の3100町歩(約3100ha)に及ぶ林野をそう呼んでいたそうです。
「秣(まぐさ)」とは、馬の餌にする草のことで、たぶん「馬草(まぐさ)」なのでしょう。その「秣」を取る場所なので、「秣場」となります。

農業用機械も化学肥料もなかった当時の農業において、草は馬の餌に、落ち葉は堆肥に、枯枝は燃料にと、必要不可欠な資源でした。
それらの資源は、山間部の農家は自村で豊富に入手できますが、平地の農家ではそうはいきません。
そこで、平地の農家にも共同利用できるようにしたのが「入会地(いりあいち)」と呼ばれる山間部の土地で、「中野秣場」は江戸時代から続く「入会地」でした。
「秣場」とはいうものの、馬の餌だけでなく、肥料や燃料をも入手する重要な場所だったのです。

右の図は、「中野秣場」を利用していた村々を描いています。
ずいぶん遠くの村まで利用していたことが分かります。

ただ、どの村も同じように利用できたという訳ではありません。

「秣場」をもつ村は「野付(のつけ)村」といい、「秣場」への出入りは自由にできます。

「野付村」に隣接する村は「札元(ふだもと)村」といい、「秣場」への出入りは自由でしたが、領主に「秣税」を納める義務があります。

上記以外の村は「札下(ふだした)村」といって、「札元村」が発行する「秣札」を購入しなければ利用することができません。
「札元村」は、この「秣札」の売り上げの8割を、領主に納めていたのです。

それでも、この方法で特に問題が発生することはありませんでした。
騒動になるきっかけは、明治六年(1873)、「中野秣場」が国有地になったことでした。

長くなりそうですので、この続きは次回に致します。

(参考図書:「群馬町誌」「群馬町の文化財」「群馬県史」)


【真鹽紋彌翁之碑】





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Posted by 迷道院高崎 at 07:27
Comments(12)三国街道
この記事へのコメント
昨日、榛東村を通り、新しい建物がどんどん
建設されている様子を見ましたので、「まぐさ場騒動」を読んで隔世の感・・・です。
「切干塚」も不思議ですね。
Posted by 風子  at 2010年02月24日 10:04
こんにちは、いつも楽しみに読ませてもらってます^^

ところで榛東村の盗人(ぬすっと)越峠の名前の由来も秣場をめぐる争いからだという説がもっともらしいですよね、時代は違うでしょうが・・・


それと柏木沢の群馬のしろうと考古学さん綿貫観音山古墳ではお世話になりました、またお目にかかれるときを楽しみにしております^^
Posted by haruna3  at 2010年02月24日 12:57
秣場騒動に関しては、確か祖父から生前に聞いた様な記憶があいまいなのですが。確か、松之沢での出来事か松之沢の人々が関係してたか。もしかしたら別件かもしれません。入り会い権の事でもめたとか。迷道院様、勉強させてもらいます。
haruna3様、お久しぶりです。ここで会うとは奇遇ですね。昇寛様の所ごぶさたしてます。また古墳巡りやりましょう。

すみません迷道院様、少々コメント欄お借りしました。
Posted by 柏木沢の農家おじさんことしろうと考古学  at 2010年02月24日 17:33
>風子さん

本当に、隔世の感ですよね。
昔の人の辛抱強さは、日常の暮らしぶりから培われたものなんだと、よく分かります。
現代は、便利がちょっと過ぎるのかなぁ?
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月24日 20:50
>haruna3さん

盗人峠って、そうだったんですかー。
本当に追い剥ぎか何か出たんだと思ってました。
だって、出そうな所ですよね、あそこ。

柏木沢の方とお知り合いでしたか。
人のつながりって面白いですね(^^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月24日 20:53
>柏木沢の農家おじさんことしろうと考古学様

だんだんお名前が寿限無みたいになってきましたね。
大変なご仁だということも、だんだん分かってきました(^^)

「秣場騒動」、ご推察の通り松ノ沢が大いに関係します。
おじい様から直接お聞きになったとは、羨ましい。
私も今、俄か勉強中です。

haruna3さんとお知り合いとのこと、私のブログがこんな風にお役に立つとは、びっくりです\(◎o◎)/!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月24日 21:03
迷道院様 切干塚の件ですが、私も数年前から環状線を通るたび「史跡 首塚」の標注が気になってました。戦国時代の首塚の名残だと思ってました。今回、迷道院様の本サイトの解説でまたまた長年の謎が氷解しました。ありがとうございます。しかし不思議な伝承ですね。
村民全員殺害のジェノサイトがあったなんて。
つい忙しさにかまけて立ち寄れなかったので今度私も訪ねてみます。
それから、私はただの歴史好きなそこいらにいる「変わり者のおっさん」です。
宜しかったらこれからもおつき合いの程よろしくおねがいします。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年02月25日 20:14
>柏木沢の農家おじさん様

私も、刑場の跡だと思っていました。
教育委員会でも、高崎五万石騒動で処刑された人の首を葬った所だと思っている人がいた位ですから。

ところで「変わり者のおっさん」なんですか?(笑)
気が合いそうですね。
こちらこそ、よろしくお願い致します(^^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月25日 22:10
子どもの頃、この真塩紋弥の碑のそばでよく遊びました。
祖父は真塩紋弥の門弟であったと親から聞いたことがあります。
こちらの記事を読み、大変興味深く思いました。
先人の生きた時代に思いを馳せるのは楽しいものです。
興味深い記事をありがとうございます。
Posted by あすたろう  at 2018年05月20日 17:40
>あすたろうさん

コメント、ありがとうございます。
お祖父さまが、紋弥の門弟とはすごい話ですね。
歴史はつながっていることを実感します。

ところで、作家のたなか踏基さんが、紋弥を主題にした小説「櫻樹の塚」を出しています。
高崎中央図書館にありますので、よろしければご覧ください。

因みに、私のブログにも記事があります。
http://inkyo.gunmablog.net/e321388.html

今後とも、よろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2018年05月20日 20:23
迷道院様

そういった本があるのですね。
情報をありがとうございます。

迷道院さんの他の記事も読ませていただきました。(まだまだ一部ですが。)
高崎のことを知れば知るほどおもしろくなってきました。
これからも読ませていただきます。
Posted by あすたろう  at 2018年05月20日 22:51
>あすたろうさん

ありがとうございます。
励みになります。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2018年05月21日 07:14
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