たったひとつの「豆腐来由碑」から、沢山のお話が続きます。
今回は、碑の建立者・飯島靱負(ゆきえ)氏の二男・国衛(くにえ)さんのお話から判明した、「旧三国街道 さ迷い道中記」に登場した人と物の、不思議なつながりのお話です。
まず、「三国街道 帰り道(1)」に出てくる「観音寺」の「経蔵」ですが、あれを寄贈した飯島富雄氏は、国衛さんの一番上のお兄さんなのだそうです。
つまり、靱負氏のご長男だった訳です。
しかも、「観音堂」の傍らに建つ観音像も、富雄氏の寄贈だそうです。 →
さらに、足門の「徳昌寺」境内に建つ観音像は、靱負氏の二男・誠氏の寄贈でした。 →
陸軍大尉だった誠氏が、ニューギニアの激戦で亡くなった戦没者の慰霊のために建立したものです。
傍らに建つ石碑には、ニューギニア戦線に派兵された13万余名の内、
12万余名が戦死したと刻まれています。
9割強の人たちが、亡くなってしまったんですね。
群馬県下の戦没者は9,230名、その内旧群馬町出身者は122名だそうです。
それにしても、親子二代に亘っての私財を投じた寄進、実に頭の下がる思いがします。
父・靱負氏の背中を見て育ったからこそ、成した財を独り占めすることなく、神仏や郷土への報恩に用いたのでしょう。
いや、神仏や郷土への功徳が、その人へのご利益として財を成さしめたのかもしれません。
ということは、成した財を自分の為だけに使おうなんぞと考えると・・・。
・・・そういうことです。
不思議なつながりは、まだ続きます。
飯島富雄氏の著書・「観音寺誌 祖徳流芳」には、「旧三国街道 さ迷い道中記(10)」で紹介した「仙太郎稲荷」の写真が載っていました。
さらに、この写真が「仙太郎稲荷」かどうかを確認して頂いた植木元治氏という方と、「豆腐来由碑」との間にも、つながりがあったのです。
あの「豆腐来由碑」を築造したのが、植木元治氏の父・植木友作(ともさく)氏だったのです。
この友作氏もまた、伝説的な人物だったようです。
明治六年(1873)生まれの友作氏は、立派な体格の持ち主で、徴兵検査も甲種合格、日清・日露の両戦に参戦し、二百三高地の激戦において目覚ましい軍功があったということです。
それにより、功七級金鵄勲章と勲八等白色桐葉章を授かっています。
そんな剛の者でありながら、非常に多趣味で頓知がきき、手先の器用な人で、人形造りは名人と言われる腕前でもありました。
また、活花は代々竹望斉を名乗る家柄で、友作氏はその十九代目です。
そして、最大の特技は造園・築山だったそうで、「豆腐来由碑」を含め「観音寺」境内の碑のほとんどは、友作氏の築造といいます。
「兵隊友さん」と呼ばれていた友作氏は、昭和二十年(1945)の敗戦にも、「日本は決して負けることはない。その内に神風が吹く。」と、なかなか敗戦を納得しなかったそうです。
また、「自分の死は第三回目の出征だから、軍服を着せ軍靴を履かせ、集まって下さった方々には大いに祝って戴くよう、十分酒も用意し軍歌を歌って見送って頂き・・・」と、よくよく言い遺していたといいます。
昭和三十三年(1958)、八十六歳の天寿を全うされました。
戒名は、偕雅院築山道誉居士。
第二十代竹望斉を継いでいる植木元治氏も、造園・築山をよくし、自ら「『植木の元を治める』という名を付けてもらったのも、これを天職にせよということなのだろう。」と仰っていました。
それにしても、不思議なつながりでした。
人と人との関わり合いは、偶然のように見えて、実は必然的に繋がり合っているのかも知れません。
大切にしなければいけませんね。
今回は、碑の建立者・飯島靱負(ゆきえ)氏の二男・国衛(くにえ)さんのお話から判明した、「旧三国街道 さ迷い道中記」に登場した人と物の、不思議なつながりのお話です。
まず、「三国街道 帰り道(1)」に出てくる「観音寺」の「経蔵」ですが、あれを寄贈した飯島富雄氏は、国衛さんの一番上のお兄さんなのだそうです。
つまり、靱負氏のご長男だった訳です。
しかも、「観音堂」の傍らに建つ観音像も、富雄氏の寄贈だそうです。 →
さらに、足門の「徳昌寺」境内に建つ観音像は、靱負氏の二男・誠氏の寄贈でした。 →
陸軍大尉だった誠氏が、ニューギニアの激戦で亡くなった戦没者の慰霊のために建立したものです。
傍らに建つ石碑には、ニューギニア戦線に派兵された13万余名の内、
12万余名が戦死したと刻まれています。
9割強の人たちが、亡くなってしまったんですね。
群馬県下の戦没者は9,230名、その内旧群馬町出身者は122名だそうです。
それにしても、親子二代に亘っての私財を投じた寄進、実に頭の下がる思いがします。
父・靱負氏の背中を見て育ったからこそ、成した財を独り占めすることなく、神仏や郷土への報恩に用いたのでしょう。
いや、神仏や郷土への功徳が、その人へのご利益として財を成さしめたのかもしれません。
ということは、成した財を自分の為だけに使おうなんぞと考えると・・・。
・・・そういうことです。
不思議なつながりは、まだ続きます。
飯島富雄氏の著書・「観音寺誌 祖徳流芳」には、「旧三国街道 さ迷い道中記(10)」で紹介した「仙太郎稲荷」の写真が載っていました。
さらに、この写真が「仙太郎稲荷」かどうかを確認して頂いた植木元治氏という方と、「豆腐来由碑」との間にも、つながりがあったのです。
あの「豆腐来由碑」を築造したのが、植木元治氏の父・植木友作(ともさく)氏だったのです。
この友作氏もまた、伝説的な人物だったようです。
明治六年(1873)生まれの友作氏は、立派な体格の持ち主で、徴兵検査も甲種合格、日清・日露の両戦に参戦し、二百三高地の激戦において目覚ましい軍功があったということです。
それにより、功七級金鵄勲章と勲八等白色桐葉章を授かっています。
そんな剛の者でありながら、非常に多趣味で頓知がきき、手先の器用な人で、人形造りは名人と言われる腕前でもありました。
また、活花は代々竹望斉を名乗る家柄で、友作氏はその十九代目です。
そして、最大の特技は造園・築山だったそうで、「豆腐来由碑」を含め「観音寺」境内の碑のほとんどは、友作氏の築造といいます。
「兵隊友さん」と呼ばれていた友作氏は、昭和二十年(1945)の敗戦にも、「日本は決して負けることはない。その内に神風が吹く。」と、なかなか敗戦を納得しなかったそうです。
また、「自分の死は第三回目の出征だから、軍服を着せ軍靴を履かせ、集まって下さった方々には大いに祝って戴くよう、十分酒も用意し軍歌を歌って見送って頂き・・・」と、よくよく言い遺していたといいます。
昭和三十三年(1958)、八十六歳の天寿を全うされました。
戒名は、偕雅院築山道誉居士。
第二十代竹望斉を継いでいる植木元治氏も、造園・築山をよくし、自ら「『植木の元を治める』という名を付けてもらったのも、これを天職にせよということなのだろう。」と仰っていました。
それにしても、不思議なつながりでした。
人と人との関わり合いは、偶然のように見えて、実は必然的に繋がり合っているのかも知れません。
大切にしなければいけませんね。
(参考図書:「観音寺誌」)