2010年02月05日

旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)

旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)「代官所」の前が、金古宿「上の問屋」でした。

「問屋」と言うと現代では「卸問屋」をイメージしますが、当時は宿場役人「問屋」と呼んでいたようで、「上の問屋」は、代官でもある神保家です。

「問屋」は、前後の宿場への人馬継ぎ立てや、幕府の公用文書を継送する継飛脚が重要な業務でした。
人馬の継ぎ立ては、必ず隣接する宿場までと定められていて、金古から直接倉賀野までという訳にはいかなかったようです。
しかも、宿場ごとに公定運賃が異なっていて、高崎から金古に継ぎ送ってきた人馬に、帰るついでだからと高崎への荷を頼もうとしても、金古の賃料は安いからと引き受けてもらえなかったそうです。
そんな時はきっと、虚々実々の駆け引きが行われたのでしょうね。

「上の問屋」から北へ200mほど行くと、「上宿」の交差点です。

旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)この角に、旧群馬町で一番大きいと言われるケヤキの木があります。

木の下に、一段高くなっている所がありますが、コンクリートが打ってあるだけで、何もありません。

旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)←でも、以前はこんな風になっていたようです。

ここは、「行人塚(ぎょうにんづか)」といいますが、意外とご近所の方はご存知ありませんでした。

「行人塚」というのは各地に存在しますが、入定(にゅうじょう)と言って、修験者や修行僧が自ら穴の中に入り、息絶えるまで念仏を唱えるという、究極の修行が行われた所です。
「入定」(Wikipedia)

ここには、モノクロ写真にあるように、ここで入定した真岩常正(しんがん・じょうせい)という僧の、宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っていたはずなのですが、現在、何もありません。

ご近所の方数人にお聞きしたのですが、「そんなのあったかなぁ?」とか「そういえば、何かあったような・・・。」というお話ばかりでした。

旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)ウロウロしていると、一軒の石材店が目に入りました。
石屋さんなら、もしかして何か知っているのではないかと、お店に飛び込んで聞いてみました。

初めは、「え?行人塚?」という反応でしたが、
「上宿の信号の角に・・・」とお話すると、
「あー、うちに来てるよ。」という話になりました。

なんでも、塔などの修復依頼がこの石屋さんに来ていて、今、工場の中にあるというのです。

「写真を撮らせてもらえませんか?」とお願いして、案内して頂きましたが、もうバラバラになっていて元の姿は分かりませんでした。
旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)「金古宿の由来」という小冊子に載っていた写真で、ご覧ください。

石屋さんのお話では、3月のお彼岸までには元の場所に戻して、開眼供養をする予定になっているそうですので、その頃行ってご覧ください。

旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)上宿の信号のすぐ北に、「木戸際(きどぎわ)」というバス停があります。

そうです、先ほどの「行人塚」のところに、金古宿「北の木戸」(上の木戸)があったので、この辺を「木戸際」と言います。

旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)あー、ついに三国街道高崎分もここまでです。

ここから先は、前橋市
前方には、清野町の信号が見えます。

前橋分ではありますが、「清野町」という町名についてご紹介し、「旧三国街道 さ迷い道中記」の最終回といたしましょう。

旧三国街道 さ迷い道中記(最終回)ここは、かつて群馬郡清里村大字野良犬という地名でした。

昭和三十年(1955)に前橋に編入された時、清里の「清」と、野良犬の「野」を取って「清野町」と地名変更したようです。

では、最初の「野良犬」というすごい地名には、いったいどんな由来があるのでしょう?

一説には、如来様を祀った「如来堂」があって、「にょらいど」だったとか。
また一説では、如来様が祀られている野っ原だったので、「にょらいの」だったとか、という説があります。
問題は、それが何故「野良犬」になってしまったかです。

実は、私には思い当たる体験があります。
ん十年前、ピカピカの新入社員時代のことです。
目の前の電話が鳴って、恐る恐る出た私に、
 「△△産業の、ちりがみと言いますが、
   〇〇係長いらっしゃいますか?」

 「は?ちりがみさんですか?」
 「はい、そうです。」
変だなぁ、とは思いましたが本人がそう言うので、
 「係長、ちりがみさんからお電話です。」と、受話器を渡すと、
 ちりがみー?」と言いながらも、出てくれました。
ひとしきり話をしていて、電話が終わった後です。
 「バカヤロー!千々波(ちぢなみ)さんじゃねぇか!」

それからは、怪しい名前の人には、
「どんな字を書きますか?」
と聞くことにしました。

なので、こんなやり取りが想像されるのです。
 役人 「これ、百姓。この地の名称は何と申す。」
 農民 「へぇ、にょらいのと申しやす。」
 役人 「ん?のらいぬと申すか?」
 農民 「へぇ、さいでごぜぇやす。」
 役人 「しかと、相違ないか?」
 農民 「へぇ、まちげぇごぜぇやせん。」
 役人 「左様か、解せぬが・・・野・良・犬と。」
ってな感じだったんじゃないでしょうか。

おまけにもうひとつ、「清里村」の由来を。
清里村は、明治二十二年(1889)に池端村、上青梨子村、青梨子村、野良犬村の4ヶ村が合併してできた村です。
その時、池端のの字の「氵(さんずい)」と、青梨子の「青」を組み合わせて「清」とし、野良犬の「野」の偏の「里」を組み合わせて、「清里」としたそうです。
昔の人の知性の豊かさを感じますね。

何だか、随分長くなってしまいました。
さて、高渋線で帰ることに致しましょう。

(参考図書:「群馬町誌」「金古宿の由来」「今に生きる群馬の古代地名」)


【上の問屋】

【木戸際の行人塚】





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Posted by 迷道院高崎 at 07:18
Comments(12)三国街道
この記事へのコメント
隠士、長丁場のさ迷い道中記、お疲れ様でした。日々、Upを楽しみにrssしておりました。
さすが隠士、いままでの読み込んできた資料-データ、総じての見識に圧倒されました。今回のさ迷い道中記に登場するいろいろな場所は小生も何回か足を運んでいるのですが、データ的な蓄積不足で、リンケージが見えませんでした。やはり情報の蓄積が必要だと痛感した次第です。

このたびの企画のおかげで、いろいろなものが見えてきました。
感謝!  夢寅 拝
Posted by 夢寅  at 2010年02月05日 10:02
常々謎に思っていた野良犬村の由来、お陰様で氷解しました。
有り難うございます。
Posted by ふれあい街歩き  at 2010年02月05日 10:33
即身仏に関する事例は聞いたことがありますが
どこか特別な場所で、と思っていました。
身近な場所でも修行が行われていたのですね。

野良犬!という地名の由来についてのご考察も、
年相応に思い込みが激しくなっている身には、おかしくもあり、切実でもあり・・・。
今回も愉しく読ませていただきました。
さて、次の展開はいかに・・・。(拍手)
Posted by 風子風子  at 2010年02月05日 15:13
迷道院様、ご紹介の上宿の角のケヤキの所は私も以前から気になり昨夏に車から降りて確かめた事もありました。というのも私、古墳探査も興味あり、もしや古墳ではないかと以前から大ケヤキの所を疑っていたのです。が、今日ここで謎が解けました。入定塚だったとは。ありがとうございました。ちなみに、迷道院様はご存知かと思いますが、箕郷町にも芋上桜を有する行人塚古墳と言うお坊さんの入定伝説がある塚があります。そうそう、この大ケヤキの北西約500mの所、金古の橋向(はしむこう)という所の畑の中にも入道山古墳というやはり入定伝説のある古墳がありますよ。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年02月05日 15:13
>夢寅さん

旧三国街道、あまりの見所の多さに、思った以上の記事数になってしまいました。

きっと、もっと見所は沢山あるのだと思いますが、素人の私には息が切れます。
あとは専門の先生方に、よろしくお願いしたいと思います。

長丁場のお付合い、ありがとうございました。
こちらこそ、感謝申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月05日 19:02
>ふれあい街歩きさん

そうでしたね、「電車みち」のコメントで野良犬村のことを仰ってたのを憶えてます。

そのおかげで、由来を調べる気になった訳でして、こちらこそお礼を申し上げなくちゃです。
ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月05日 19:08
>風子さん

即身仏とはすごいことですよね。
でも私は、生きていて欲しかったです。
その方が、衆生を救う機会はいくらでもあったと思うので。

次の展開ですかー?
新三国街道沿いにも、面白いものが結構ありそうなんですよ。
また、さ迷っちゃいそうです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月05日 19:15
>柏木沢の農家おじさん様

古墳に興味をお持ちでしたか。
群馬町は古墳大国ですもんね。
染谷川沿いに、古墳が多いようですね。

芋上桜、見に行ったことがあります!
古木で塚の上に一本、泰然と咲いていたのを記憶してます。
そうですか、あそこも入定塚でしたか。

入道山古墳、知りませんでした。
名前からして、入定塚ですね。

ありがとうございました!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月05日 19:26
行人塚は完成いたしました。県道拡幅計画開始から二十数年になるでしょうか。
あの場所にはもともと墓地として何基ものお墓が建っていました。
Y家の墓地として十数軒分の墓地を常仙寺に移転させ、あの塚だけは道路が広がっても大丈夫ということになり今回の改修工事となりました。

この改修工事も数年単位での話し合いが行われました。
Y家の大先祖で男の神様と女の神様という言い伝えがあるそうです。
Y家の中心人物として一家を取りまとめたのが某ブロック製造会社の会長さんです。

道路が完成したらもっと見栄えがいいと思います。楽しみです。
Posted by 長沼石材店  at 2010年10月21日 16:16
>長沼石材店様

コメントありがとうございました!
いつぞやは、突然の飛び込みにもかかわらず、
ご親切にありがとうございました。

7月に、改修なった行人塚を拝見してきました。
おかげさまで立派になりましたね。
Y家様に伝わるというお話も、興味を引きます。

長沼様のブログも拝見しました。
矢島祥子さんの記事も載っていましたね。
私達夫婦も、先日お父様の病院へ署名に行ってきたばかりです。

何だか、ご縁が繋がっているような気がします。

これからも、よろしくお願い申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年10月21日 20:14
記事にしてくださり有難うございます。
5年も経ってしまいましたが...。

一族では毎年3月に先祖祭祀を行っております。長沼さんがおっしゃる「男の神様」「女の神様」は、確かに祭られてますが、とりまとめは一族の皆の合意であり、誰か?! というのはございません。ハイ。次は記念碑を長沼さんに依頼しているようですが。今年3月の完成と聞いております。

また、「馬頭観音様」と「如意輪観音様」が祀られております。欅の木は400年たちました。
御先祖様が即身仏された直後に植樹されたものです。

昔は、柳澤家の墓と共にありましたが、道路拡張で止むを得ず、行人塚だけ残して墓だけ移転しました。欅が伐採されなかったのが、せめてもの慰めですが、県で調べたところ木の根っこが400年の間に とてつもなく延びていることと、やはり祟りが...ということらしいです。

迷道院様には、子孫として 心より感謝申し上げます。
Posted by 子孫  at 2015年02月17日 06:31
>ご子孫さま

コメントを頂戴し、ありがとうございます。
感激です。

そうなんですね、この記事を書いてからもう5年なんですね。
三国街道をさ迷い歩いていた頃を、懐かしく思い出します。
今年3月に完成予定の記念碑、ぜひ拝見しに行きたいと思います。
ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2015年02月17日 10:10
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