2010年02月03日

旧三国街道 さ迷い道中記(20)

旧三国街道 さ迷い道中記(20)「常仙寺」から北へ350mほど行くと、白壁と木の塀で趣きはあるが、朽ち始めた感のある建物が目に留まります。

旧三国街道 さ迷い道中記(20)


さらに進むと、立派な門構えです。
ここは、金古宿代官所跡です。

「お代官様」というと、陣笠・陣羽織で大小の刀を腰に差し、采配を手に、馬に跨って偉そうにしているお侍さんをイメージしますが(私だけ?)、金古宿代官はちょっとそれとは違うようです。
旧三国街道 さ迷い道中記(20)この人が、金古神保磯右衛門という代官
苗字帯刀は許されていますが、身分は農民です。

農民とは言え、金古宿問屋名主で、臥雲という雅号を持ち、和歌、俳諧、書画、和漢の道に優れた国学者だったそうです。

文政七年(1824)生まれ、明治十六年(1883)に亡くなっています。

旧三国街道 さ迷い道中記(20)金古村は幕府直轄の「天領」だったとよく言われますが、実態は3人の旗本に分割して与えられた「知行地」でした。

旗本というのは、江戸を守るのが役目ですから、江戸に住むことが義務付けられています。
財力のある旗本は、家臣を江戸詰知行地詰に分けることも出来ますが、金古知行地に持つ旗本は、そこまでの財力はなかったと見えます。

そこで、地域の名望家を地代官に任命して、年貢の徴収などの仕事を代行させた訳です。

旧三国街道 さ迷い道中記(20)代官であった神保家の大門は、昭和五十二年(1977)に群馬町の重要文化財に指定され、平成十五年(2003)にもそれを表す標柱が建てられています。
(今は、どなたかの後援会連絡所の看板の方が目立っていますが・・・)

群馬町高崎市に合併されたのは平成十八年(2006)ですが、文化財の保護は引継がれていないのかと思うほど、荒廃が進んでいました。

旧三国街道 さ迷い道中記(20)そろそろ文字が擦れて読み難くなってきた看板に、「南門柱などに多くの埋木があるのは、慶応四年の世直し一揆に襲撃された際の補修によるものである。」と書かれています。
旧三国街道 さ迷い道中記(20)

左の写真が埋木の跡ですが、時を経て元の部材と見分けがつかない位、馴染んできています。

旧三国街道 さ迷い道中記(20)群馬町金古二区編「金古宿の由来」に、代官所の平面図が掲載されています。

「糾弾所」とあるのは、罪人の取調べや一時的な留置をした所です。

このブログ記事のトップ写真は、その「糾弾所」を外から見た所になる訳ですね。

この平面図によって代官所跡を整備したならば、三国街道の貴重な観光資源として活かされるはずですが、現状は荒れ放題という状態です。

[忍び返し][糾弾所][門番小屋]
旧三国街道 さ迷い道中記(20)旧三国街道 さ迷い道中記(20)旧三国街道 さ迷い道中記(20)

私有の「文化財」を、所有者個人が維持していくのは限界があると思います。
文化財として指定した地域の、住民全体が協力することを、考えていく必要がありそうです。

(参考図書:「群馬町誌」「金古宿の由来」)


【金古代官所跡(神保家)】





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Posted by 迷道院高崎 at 07:13
Comments(10)三国街道
この記事へのコメント
代官所跡には、一度史跡めぐりで、死んだ親父と行った記憶があります。年配の女性の方が案内してくれた気がします。
ところでどこまで北上するのですか、寒さ厳しき折です無理をなさらないように。
Posted by 捨蚕  at 2010年02月03日 08:44
>捨蚕さん

そうでしたか。
母屋の中もご覧になれましたか?
なかなかのものらしいですね。

高崎の果てまでは北上しようと考えています。
あと、ちょっとです(^^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月03日 09:17
歴史を感じますね。
「埋木」など、細部まで観察されていることに
感心するばかりです。
「忍び返し」があることも、そういう名称であることも初めて知りました。
地域の貴重な歴史財産が傷んでしまうのは、
なんとも残念です。
Posted by 風子風子  at 2010年02月03日 09:56
>風子さん

歴史散歩をしていて、一番寂しいのは「あぁ、これもう少しで消えちゃうなぁ。」って感じる時です。

よき日本の文化が消えていかないように、何かをしなければいけないと考えるようになりました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月03日 20:15
昭和10年生まれの私の母親は実家が金古の農家なんですが、話をきくと幼少の頃、神保家の事を、おでーかん(お代官)と呼んでいたそうです。なんか時代劇みたいですね。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年02月03日 21:21
>柏木沢の農家おじさん様

うわー、リアリティ溢れるお話ですねー!
何だか、嬉しいです。
よけい、でーかんしょ(代官所)の修復をしたくなりました!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月03日 22:09
こんにちは。

はじめまして。私は神保家の末裔のものです。

私の祖父は山崎憲二と申します。実は旧姓が神

保と申します。高崎の金古で神保家の三男とし

て生まれました。のちに東京の山崎家に養子と

して行きその山崎家の養女のけいと結婚しまし

した。

その後関東大震災で家を追われ神戸に移り住み

ました。

そして私の父寛が生まれました。その寛の息子

が私です。

最近ご先祖の戸籍を知らべました所神保家が家

康の旗本だったりその後代官などをしていたり

と調べれば調べるほど驚くばかりです。

なかなか分からので先祖の事を教えて下さい。

私の祖父山崎憲二旧姓神保憲二(大正)

その父神保金作(嘉永)

その父神保錠八(文政)

その父清次郎

宜しくお願い致します。
Posted by 山崎太樹  at 2019年12月16日 21:45
>山崎太樹様

コメント、ありがとうございます。

これは、逆に貴重な情報を頂きました。
私も郷土史の本から得た情報しか持っておらず、ご先祖のことをお話しできるような者ではありません。
ただ、郷土史の執筆をされた先生は探せると思いますので、分かりましたらご連絡いたします。

つきましては、当ブログの左サイドバー下部の、「オーナーへメッセージ」から、山崎様のメールアドレスをお教えください。

よろしくお願い申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2019年12月17日 11:07
お返事遅くなりました。 来年2月に金古への旅をする予定です。 先祖のが住んでいた所に行くのがとても楽しみです。 私の祖父憲二は昔の住所を調べると今の明和県央高が有る所で住んでいた様です。 実家ははその近くで生糸工場を営んでいた様です。
宜しくお願い致します 山崎
Posted by 山崎大樹  at 2021年11月24日 15:28
山崎大樹様

それは楽しみですね。
上州名物「空っ風」の吹き荒れる時期ですので、温かくしてお出で下さい。

神保家のことについてお尋ねになると良いと思われる施設数ヵ所を、メールでお送りいたしました。
ご参考になさって下さい。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2021年11月24日 15:34
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