2009年09月20日

高崎の「〇〇条通り」

「実政街道(2)」の記事中、「東三条通り」の他にも、高崎には「なんとか条通り」が沢山あるらしいとお話しました。

その後、少し調べていたのですが、「高崎市史」「東三条通りの公用開始は大正十二年(1923)」という記述があるのを知り、大正時代高崎の地図がないか探していました。

県内図書館の蔵書を検索したところ、県立図書館に「日本都市地図集成 明治・大正」というのがあると分かり、出かけてみました。

期待してその地図を見ましたが、残念ながら明治時代の地図で、通り名の記載もなく、東三条通りはまだ影も形もありません。
ここまで来て諦めきれず、職員の方に検索をして頂くと、貴重資料室に大正時代高崎の地図が保管されていることが分かりました。
時間をかけて出してきて頂くと、これがドンピシャ!

大正十三年(1924)に高崎市が発行した、「高崎市全図」です。
なんと、なんと!通り名がちゃんと書かれています。
おまけに、当時の戸数と人口まで書いてありました。
戸数:9,435、人口:47,890 だそうです。
平成二十一年(2009)8月末現在は、
世帯数:150,684、人口:374,367。
ほーっ!

現在の地図に、「〇〇条通り」を追記してみました。↓ 
(地図は国土地理院の閲覧サービスより)


どうやら、中山道を基準にして東西南北に条番号を振ったようです。
南側は、駅前通りを基準にしたのかも知れません。

いずれにしても、「〇〇条通り」って、なんか、カッコイイ呼び名ですよね。
もう一度、復活させてもいいんじゃないでしょうか?

参考に、高崎市商業課サイトで付けられている通り名もご覧ください。
「たかさき商店街マップ」



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この記事へのコメント
迷道院高崎さんの実証、研究に敬服します。

これでれんが通りの「(西一条通り)」表記が全くの誤りであることが証明され、本当の西一条通りは中央銀座からさやもーる、南銀座の線にあたることが解りました。

また、後に整備できた通りもあれば、北一条通りや南二条通りのように路地のまま繋がらないで実現に至らなかった通りも存在するみたいですね。


北は貝沢町から南は双葉町を結ぶ東四条通りは、後で追加された計画道路なのでしょうか。
大正13年の時点では北側の地域はまだ市外でありましたし、この通りだけが突出して離れた場所にあるのも、何らかの理由がありそうです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年09月20日 14:03
>“ふれあい街歩き”さん

いやいや、県立図書館の職員さんのおかげですよ。

東四条通りは、その地図から外れた部分なので、仰る通りまだ高崎市外で、後から付けた名前かも知れませんね。

それにしても、昔の地図を見るのって、けっこう面白いですね。
ブログネタも結構ありそうですよ。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月20日 20:02
東四条通りが何故、建設されたのか気になって推測してみました。

塚沢村が高崎市に編入された昭和2年以降に開通したことと、既存の里道を指定したのではなく、貝沢町から双葉町まで定規で引いたような一直線の新設道路であることは間違いないと思われます。(高崎競馬場のところだけ「鍵形」になっています。)

経由地の貝沢町、日光町、江木町、東町、岩押町、双葉町は明治の地図では一面の田んぼで集落は東四条通り沿いにはありません。
農地に直線道路を作ったことになります。

時代は下って、高崎市のHPの高崎空襲についての記述によれば、江木町、東町には軍需工場があって、空襲の被害を受けたとのことです。
この事柄を繋ぎ併せますと、貝沢町から双葉町にかけて工場を誘致して、東四条通りを一直線の基幹道路として整備したのではないか、と思います。


今、東四条通りを走って見ると、沿道には学校や大型スーパーが目立ちます。(スーパーのはしごをするには便利な道なのです。)
考えてみれば、学校や大型スーパーは工場の撤退した跡地にありますね。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年09月21日 03:39
>“ふれあい街歩き”さん

うーむ、なるほどー!
いつもながらの、おみごとなご推察!
脱帽です!

いにしえから、町づくり、道路づくりには、軍事上の考慮が伴っているものなのですね。

ありがとうございました!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月21日 07:35
昔は、1世帯あたり4.7人。
今は、1世帯あたり2.5人。

昔は、一つ一つの言葉に意味が、文化が、歴史がありました。
今は、音がいいからとかだけで言葉が使われています。

こうして、昔を知ることで、本来の価値を取り戻しながら、生きていきたいものですね。

いつもありがとうございます(^-^)
Posted by くみちょう  at 2009年09月22日 14:43
>くみちょうさん

そうですね。
昔の言葉って、粋ですよね。

でも、今の若者が私ぐらいの年になると、今流行りの言葉を粋と感じるようになるのかな?
えーっ?うっそー!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月22日 19:02
迷道院さん、こんにちは。

北一条通の件ですが、先日「高崎わたしばなし」でお話しを伺った土屋喜英さんによると、現在の八十二銀行向かいの路地から成田山に向かっていく通りは、成田山の縁日などで結構な人通りがあったそうです。

そうした流れで、長屋ができたり商売をする方ももそこそこあったようです。

あの通りは車が通らないので、私も自転車で子供を後ろに乗せたりするときは良く利用しています。
昔人々が行き交った通りというのは現在寂しくても、どこか人の気配がするもんなんですよね~。
Posted by 亀田  at 2014年03月16日 09:46
>亀田さん

コメント、ありがとうございます。

土屋喜英さんの「高崎わたしばなし」、見ましたよ!
今の北一条通の状態を「火が消えたようで、哀れだよ。」という喜英さんの言葉が、ズンときました。

次回の「高崎わたしばなし」特別編、楽しみにしてます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年03月16日 19:28
東三条通りは知っていたのですが…
まさかこんなにあるとは…
復活させたら京都や札幌みたいに…なんて
Posted by [Mi]Yu  at 2015年12月30日 12:59
>[Mi]Yuさん

道案内するときも、「東一条、北二条の角を南へ50m」なんて言った方が、分かりやすいかも知れませんよね。

復活させてもいいように思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2015年12月30日 15:53
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