2009年09月23日

「実政の渡し」跡を探しに

「実政街道」の記事を書いている内に、どうしても「実政の渡し」跡へ行ってみたくなりました。

上毛新聞社発行「群馬の川」に、利根川・烏川にあった「渡し」と、その廃止後に架けられた「橋」の比較図がありました。
(一部修整:迷道院高崎)

「実政の渡し」は、前橋小相木(こあいぎ)村宗甫分(そうほぶん)村の間にあったということですから、現在の南部大橋の辺りになります。

「実政の渡し」には、元和二年(1616)開所とされる「真政(実政)番所」があり、下目付1人、足軽2人が詰めていたといいます。
渡し船の定員は45人で、水かさが多い時は34、5人に減らしたそうです。
意外と、沢山乗れたんですね。
馬1匹は人間7人分として計算し、荷物が多い時もその分、乗せる人を減らしたようです。

「実政番所」は高岸上にあったようですが、天明三年(1783)の浅間山大噴火による泥流で、流失被害に遭っているようです。
その時の泥流のものすごさが、想像できる話ですね。

この辺の村は江戸時代末期には疲弊し、他の地へ流出する農民も多かったそうです。
そこで前橋藩は、農家の二男・三男に助成を与え、新建百姓として農業従事者を増やす策をとります。
その結果、民家の無かった宗甫分村は、天保五年(1834)には家数10軒、米三俵を上納できるまでになったといいます。(松平藩日記)

さて、「実政の渡し跡」ですが、川の両岸をうろうろしたものの、これという痕跡が見つかりません。
前橋刑務所下の「南町公園」へ行くと、ゲートボールを楽しむ元気なお年寄り達がいました。

そばへ行って、「この辺に実政の渡しというのがあったようなんですが、聞いたことありますか?」
とお聞きすると、ご婦人が、一番高齢と思われるおじいちゃんに、大きな声で聞いてくれました。

するとおじいちゃん、即座に「あー、あったよ。」
「今でも、跡があるんだよ。
 その橋(南部大橋)渡った、下(しも)んとこだい。」

と、教えてくださいました。

←ということで、南部大橋を小相木側に渡りながら左下を見ると、「あー、あれかな?」と思う大きな石が2つ、川の中に突き出るようにありました。

渡し船を繋留した石なのでしょうか。

小相木側から対岸を見ると、けっこうな川幅です。 →

当時は、もっと川も深かったのでしょうから、時によっては命がけの渡りだったことでしょう。

「実政の渡し」は、明治の初め、県庁裏(現在の群馬大橋のすぐ上流)に「曲輪橋」が架けられて、廃止されます。
そして、曲輪橋回りの「前橋新道」の利用が増えてくると、「実政街道」という名前も、次第に人々の記憶から消えていったようです。

さて帰ろうと、利根川自転車道を高崎に向けて走り出して、思わず「あった!」と叫んでしまいました。
何と、「史跡 真政(実正)の渡し」と刻まれた石柱が立っているではありませんか!

以前から、そしてこの日も、何回もこの前を通っていたのです。
ここは、弓道場のあるところなので、練習を見ながら暫く佇んでいたこともあります。

人間ってのは、こんなもんなんですね。
関心の無いものは、見てても見えず、
関心を持てば、見なくても目に入る。


いろんなことを考えながら、家路につきました。

(参考図書:「群馬の川」「群馬県の地名」)


【史跡実政の渡し 石柱】





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Posted by 迷道院高崎 at 07:02
Comments(6)実政街道
この記事へのコメント
一生懸命探しているときには見つからないものってありますよね。
私もいつも探し物をしています(笑)
前橋まで「赤いママチャリ号」でお出かけですか?
すごいですね~
弓道お好きですか?
高校の時弓道部でした(^^)
Posted by ぼらぼらぼらぼら  at 2009年09月24日 20:28
>ぼらぼらさん

え!ぼらぼらさん、弓道部だったんですか?
家に来てた留学生が、こちらに来てから弓を始めました。
腕を弦で打って、痛がっていたのを思い出します。
私は、伊香保の温泉街で射的の弓を射たぐらいしか・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月24日 21:02
実政の渡しについてネット上に幾つか情報が公開されていましたので書いてみます。(他力本願なコメントですみません。)

前橋市立城南小学校のHPによれば、教職員の方々が地元の古老に聞いたりして地域の歴史を子供向けに書いた「私たちの城南」という冊子があるとのことで、こちらには幾つかの実政の渡しに関して地元に伝わる話が出ています。(子供向けにはかるた仕立てにもなっています。)


1)実政街道のことをこちらの地域では日光を目指す「あづま道」と呼んでいます。ルートは箱田より小相木へ至り、真正の渡しを経て宗甫分から天川に抜けています。

2)渡し場を開設したのは上杉謙信の家臣、宇佐美真正。
鎌倉初期に記録に現れる平泉へ攻めて行った宇佐美実政とは別人で、時代も戦国です。

3)真正の関所は本格的な関所で、手形改めを行い、渡し舟から上陸した旅人は裸足で石畳を歩かされたそうです。

4)明治の初め、前橋城下の本町などの町名主らが真正の渡しに「真正橋」を架橋しようと奔走しましたが、実現に至らず、すぐ上流に利根橋が架けられました。


子供向けですが、結構詳しく調べられていて、参考になりました。

4)の真正橋について補足ですが、明治18年の前橋の地図では小相木村と宗甫分村とのあいだに橋が存在しています。名前は○安橋(字がつぶれていて読み取れません。)となっていて真正橋ではないようです。
やや上流に名前のない橋があり(利根橋か)、さらに曲輪橋、大渡橋と続いています。


城南小学校の冊子の他に現地(前橋市南町)には水神社の境内に「南町二丁目のあゆみ」という石碑もあり、真正の渡しの記述があるそうです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年09月25日 01:39
>“ふれあい街歩き”さん

前橋の城南小学校ですかー!
カルタがあったんですね。
早速ネットで見てみました。
「わたしたちの城南」は、パスワードがかかっていて見られなかったんですが・・・(T_T)

前橋では「実政」でなく、「真正」「真政」と書く方が一般的なんですね。

おかげさまで、謎が随分解けてきました。
さすがですねー!

ところで、渡しが廃止になった明治元年に、前橋本町の名主が架橋を願い出たといいます。
もしかすると、それが「真正橋」かもしれませんね。

しかし、その出願は却下されたのか、明治十二年になってから、地元民が中心になって橋が架けられたようです。
その橋の名前は「就安橋(しゅうあんばし)」だそうです。
「安心できる」という意味の「就安」だったのでしょうが、架橋後すぐに流失してしまったようです。

いつも内容の充実にご協力頂き、本当に感謝しております。
これからもよろしくお願いします!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月25日 09:20
>迷道院高崎様


橋の名前は「就安橋」だったのですね。ありがとうございます。
こちらこそ、大変勉強になります。


私も城南カルタの解説に引用されている部分を読んだだけで、冊子そのものは見れませんでした。

それにしても郷土の事柄を冊子やカルタにするなんて素晴らしいですね。


ひとつだけ疑問が残ったのは上杉謙信の家臣、宇佐美真正です。上杉家臣団の中に宇佐美定満という有名な武将がおりますが(一昨年の大河ドラマ「風林火山」で緒形拳さんが演じられていました。)、宇佐美真正の名前は見当たりません。
鎌倉初期の武将、宇佐美実政と言い伝えが錯綜してしまっているような気がします。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年09月25日 15:16
>“ふれあい街歩き”さん

城南小カルタ、素晴らしいですよね。
校長先生の手作りというのが、なお素晴らしいと思いました。

そういえば、「高崎カルタ」ってのもあるんですよね。
恥ずかしながら、ほとんど知りません(・_・;)
どのくらい、高崎市民に浸透しているもんなんでしょうか?

宇佐美実政だけが、まだ解けぬ謎ですか。
それもまたロマンとして気に留めておくと、ある日突然謎が解ける日が来るかもしれませんね。
楽しみ、楽しみ。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月25日 19:55
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