前回の「おちゃめ!」な元島名の双体道祖神を東に進み、左に上がる坂道を150mほど行ったところに、「福聚堂(ふくじゅどう)」という小さなお堂があります。
吉永哲郎氏は、昭和五十二年(1977)発行の「高崎の散歩道 第四集」の中で、「本堂はくずれ、荒れ放題の境内である・・・」と記していますが、その後、堂の再建をし、境内も整備されたようです。
昔のお堂の瓦ででもあったのでしょうか。
「千手観音堂」と刻まれた瓦が繋ぎ合わされ、表札看板のようになっています。→
←失礼して、お堂の中を覗き込むと、金色燦然と輝く「千手観音」様がおわしました。
実は、この「千手観音」には二人の妹さんがいると言われています。
次女が、観音山々麓で「指出(さしで)の寝観音」と言われる「十一面観音」、三女は、観音山石段上の清水寺の「千手観音」です。
「福聚堂」の開創は大同三年(808)で、坂上田村麻呂が観音山に、京都の清水観音を勧請した年と同じです。
次女と三女はすぐ近くに居るのに、長女はずいぶん遠くにやられたものです。
元島名町に隣接する上滝町には、彦狭島王の墓と言われる「将軍塚古墳」があります。
古くから大豪族がいたということでしょうから、長女は政略的にここに嫁がされてきたのかも知れません。
「高崎の散歩道 第四集」には、土地の人は「福聚堂」のことを「西のりょう」と呼んでいると書かれています。
「りょう」が何を意味するのかは書かれていません。
「寮」だとすれば、お堂に籠って宿泊できるようにでもなっていたのでしょうか。
また、「西のりょう」に対して「東のりょう」と呼ばれる所があるとも書かれています。
この道をさらに東へ行くと、元島名・倉賀野線に出ますが、その手前左のやや低くなっている所とあります。
行ってみましたが、わずかに粗末な木造のお堂と、石仏や庚申塔が並んでいるだけです。
←お堂の中には、最近子どもが作ったと思われる、無邪気な石の仏様が並べられていました。
写真を撮っていると、ワンワン!と吠え続ける犬の声に、その家のご主人が出てきました。
「この辺のことを東のりょうと、呼んでいますか?」とお訪ねしましたが、「聞いたことがない。」というご返事でした。
傍らには、首を刎ねられた石仏が、寂しそうに並んでいました。
いつかはここも歴史が忘れられ、畏怖の念も忘れられて、更地にされてしまうのではないかと、寂しい気持ちを抱きつつ帰路につきました。
吉永哲郎氏は、昭和五十二年(1977)発行の「高崎の散歩道 第四集」の中で、「本堂はくずれ、荒れ放題の境内である・・・」と記していますが、その後、堂の再建をし、境内も整備されたようです。
昔のお堂の瓦ででもあったのでしょうか。
「千手観音堂」と刻まれた瓦が繋ぎ合わされ、表札看板のようになっています。→
←失礼して、お堂の中を覗き込むと、金色燦然と輝く「千手観音」様がおわしました。
実は、この「千手観音」には二人の妹さんがいると言われています。
次女が、観音山々麓で「指出(さしで)の寝観音」と言われる「十一面観音」、三女は、観音山石段上の清水寺の「千手観音」です。
「福聚堂」の開創は大同三年(808)で、坂上田村麻呂が観音山に、京都の清水観音を勧請した年と同じです。
次女と三女はすぐ近くに居るのに、長女はずいぶん遠くにやられたものです。
元島名町に隣接する上滝町には、彦狭島王の墓と言われる「将軍塚古墳」があります。
古くから大豪族がいたということでしょうから、長女は政略的にここに嫁がされてきたのかも知れません。
「高崎の散歩道 第四集」には、土地の人は「福聚堂」のことを「西のりょう」と呼んでいると書かれています。
「りょう」が何を意味するのかは書かれていません。
「寮」だとすれば、お堂に籠って宿泊できるようにでもなっていたのでしょうか。
また、「西のりょう」に対して「東のりょう」と呼ばれる所があるとも書かれています。
この道をさらに東へ行くと、元島名・倉賀野線に出ますが、その手前左のやや低くなっている所とあります。
行ってみましたが、わずかに粗末な木造のお堂と、石仏や庚申塔が並んでいるだけです。
←お堂の中には、最近子どもが作ったと思われる、無邪気な石の仏様が並べられていました。
写真を撮っていると、ワンワン!と吠え続ける犬の声に、その家のご主人が出てきました。
「この辺のことを東のりょうと、呼んでいますか?」とお訪ねしましたが、「聞いたことがない。」というご返事でした。
傍らには、首を刎ねられた石仏が、寂しそうに並んでいました。
いつかはここも歴史が忘れられ、畏怖の念も忘れられて、更地にされてしまうのではないかと、寂しい気持ちを抱きつつ帰路につきました。
【福聚堂(西のりょう)】
【東のりょう?】