2009年08月30日

千手観音三姉妹

千手観音三姉妹前回の「おちゃめ!」元島名双体道祖神を東に進み、左に上がる坂道を150mほど行ったところに、「福聚堂(ふくじゅどう)」という小さなお堂があります。

吉永哲郎氏は、昭和五十二年(1977)発行の「高崎の散歩道 第四集」の中で、「本堂はくずれ、荒れ放題の境内である・・・」と記していますが、その後、堂の再建をし、境内も整備されたようです。

千手観音三姉妹昔のお堂の瓦ででもあったのでしょうか。
「千手観音堂」と刻まれた瓦が繋ぎ合わされ、表札看板のようになっています。→

千手観音三姉妹



←失礼して、お堂の中を覗き込むと、金色燦然と輝く「千手観音」様がおわしました。

実は、この「千手観音」には二人の妹さんがいると言われています。

次女が、観音山々麓で「指出(さしで)の寝観音」と言われる「十一面観音」、三女は、観音山石段上の清水寺の「千手観音」です。

「福聚堂」の開創は大同三年(808)で、坂上田村麻呂観音山に、京都清水観音を勧請した年と同じです。
次女三女はすぐ近くに居るのに、長女はずいぶん遠くにやられたものです。
元島名町に隣接する上滝町には、彦狭島王の墓と言われる「将軍塚古墳」があります。
古くから大豪族がいたということでしょうから、長女は政略的にここに嫁がされてきたのかも知れません。

「高崎の散歩道 第四集」には、土地の人は「福聚堂」のことを「西のりょう」と呼んでいると書かれています。
「りょう」が何を意味するのかは書かれていません。
「寮」だとすれば、お堂に籠って宿泊できるようにでもなっていたのでしょうか。

また、「西のりょう」に対して「東のりょう」と呼ばれる所があるとも書かれています。
この道をさらに東へ行くと、元島名・倉賀野線に出ますが、その手前左のやや低くなっている所とあります。

千手観音三姉妹行ってみましたが、わずかに粗末な木造のお堂と、石仏や庚申塔が並んでいるだけです。

千手観音三姉妹←お堂の中には、最近子どもが作ったと思われる、無邪気な石の仏様が並べられていました。

写真を撮っていると、ワンワン!と吠え続ける犬の声に、その家のご主人が出てきました。
「この辺のことを東のりょうと、呼んでいますか?」とお訪ねしましたが、「聞いたことがない。」というご返事でした。

千手観音三姉妹傍らには、首を刎ねられた石仏が、寂しそうに並んでいました。

いつかはここも歴史が忘れられ、畏怖の念も忘れられて、更地にされてしまうのではないかと、寂しい気持ちを抱きつつ帰路につきました。

【福聚堂(西のりょう)】

【東のりょう?】


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Posted by 迷道院高崎 at 07:46
Comments(11)◆高崎探訪
この記事へのコメント
以前元島名に住んでいましたが、
お堂があるなんて知りませんでした。
長女が小さい頃そのあたりは散歩していたのですがわからなかったです。
小さな所にもいろんな歴史がありますね。
Posted by ぼらぼら  at 2009年08月30日 20:24
>ぼらぼらさん

ちょっと分かりにくい所ですよね。
歴史とか言い伝えを知ってその場所へ行くと、楽しさが違います。
最近、本当に楽しませてもらっています。
先人に、感謝ですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年08月30日 23:20
何故、一体離れて元島名に千手観音様が祀られているのか、古代のロマンを感じさせますね。


以下は私の憶測ですが、観音山に建立された清水寺は山岳道場であり、福聚堂は里のお堂という意味合いであったのではないでしょうか。

高野山や比叡山が同時代に開かれましたが、修行道場であったため都からは隔絶された場所でした。都びと(貴族)が参詣や祈祷に訪れることが難しいために、東寺が里(この場合は都)に建立されたものと思われます。

和名類従集の「上野国 群馬郡」の郷名に島名郷の記載があることから、この元島名地区は古代にまとまった集落があったと見られます。近くの遺跡からは水田跡も発見されています。
ゆえにお堂を身近に建立する下地があるのではと思います。

また、古代の東山道は前橋市の元総社町にあった上野国国府から次の佐位驛に向かって東進していますが、この島名郷も沿道からそれほど外れていない場所であったと想像します。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年08月31日 22:39
すみません。
前コメント中にある「和名類従集」は「和名類聚抄」の誤りでした。

うろ覚えで書いてしまいました。(笑)
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年09月01日 02:07
>ふれあい街歩きさん

いつも、博識のあるコメントありがとうございます。
おかげさまで、ブログに箔が付いたような気がします。

なるほど、山岳道場と里のお堂という考え方ですね。
昔の人は、今の人よりももっと広い範囲で物事を考えていたんでしょうか。
空気も澄んでいたでしょうし、高い建物もなかったでしょうから、遠くまで見渡して考えることが出来たんでしょうね。

「倭名類聚抄」にある「佐伊郡」は、今の伊勢崎辺りでしょうかね。
それにしても、うろ覚えで「倭名類聚抄」が出てくるとは、流石です!
普段の研究のほどがよくわかります。

これからも、私のブログの箔付け、よろしくお願いいたします。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月01日 07:54
>迷道院高崎様


聞きかじりでボロがでるばかりで、大変お恥ずかしい限りです。(汗)


佐位郡は現在の伊勢崎市東部(広瀬川以東)に当たります。
古代の佐位駅の位置は諸説あるみたいで、伊勢崎市三和町、伊勢崎市上植木地区辺りに比定されているようです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年09月01日 13:31
>ふれあい街歩きさん

ご謙遜を!

それにしても、昔のことを知るというのは楽しいことですね。
100年後の人達は、昭和・平成の遺跡をどう感じてくれるんでしょうね?
その頃、もう一度生まれ変わってみたい気がします。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月01日 18:53
>迷道院高崎様


今の考古学の発掘調査でも便所の遺構などを調べる際には、今の時代にない病原菌に気をつけると聞いたことがあります。
100年後の人達が昭和・平成の遺跡を発掘する際には、有毒な廃棄物への危険が伴いそうで、可哀想です。
不発弾、化学物質、放射性廃棄物、医療廃棄物…、昔にはなかった危険です。


こう書いて見ると暗いので、

文字で書いたものだけでなく、音声、映像やデータ、サンプルが豊富なので追体験ができるでしょうね。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年09月02日 00:08
>ふれあい街歩きさん

ははー、そうかぁ・・・。
有害物質が出てくるのは、困りますね。

確かに、映像データは沢山残りますね。
でも、その分、想像する楽しみやロマンは減ってしまうんでしょうか?
難しいところですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月02日 07:27
何回もコメントしてすみません。


古代の東山道の具体的な経由地について気になったのでネットで調べてみたのですが、東山道は元総社町から伊勢崎市三和町に直行しているのではなく、南に回って高崎市域、玉村町域を通過していることがわかりました。

そして、東山道の遺構が発見された遺跡のひとつに高崎情報団地遺跡があります。場所は宿大類町の島名橋の南側にあたり、元島名町の千手観音堂とは目と鼻の先です。

私も古代の東山道がこんなに近くを走っていたとは知りませんでした。
島名郷は幹線道路沿いの要衝で、千手観音堂が建てられる下地があったことをあらためて確信した次第です。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年09月02日 14:27
>ふれあい街歩きさん

東北へ行くのに、こんな方を回っていたんですかー!
しかも、千数百年も前の話ですから驚きですよね。
郷土史から、日本史へのつながりを知るのも、また興味深いことですね。

そのへんのこと、またいろいろ教えてくださいね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年09月02日 18:44
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    コメント(11)