2009年08月23日

米街道を辿って(3)

「米街道を辿って(2)」の続きです。

「降照大明神」の石祠の前を東に進むと、丁字路があります。

直進すると、健康福祉大学の野球場です。
倒れそうに暑い中、若者たちの元気な声が辺りに響いていました。

米街道は、左折します。

「この先通り抜け出来ません」という看板が立っていますが、この先こそ米街道なのです。
看板なんぞ無視して、ずんずん進みましょう。

どうです!
いい雰囲気じゃありませんか!
当時もきっとこうであったろう稲田の中を、涼やかな風を受けながら進むと、井野川サイクリングロードに出ます。
男性が、軽やかにジョギングを楽しんでいました。

そのサイクリングロードで古道は途切れますが、対岸に石段があって、その右に道路に上がる道が見えます。
これが、かつての米街道の痕跡です。

明治四十年(1907)の地図をみると、ここに橋が架けられていたのが分かります。

その上がり道の左側に草ぼーぼーの一角がありますが、かつて、ここには「立て場茶屋」があったのだそうです。
「高崎の散歩道 第四集」の吉永哲郎氏によると、この土蔵の二階は博徒が博打を開帳する鉄火場として使われていたといいます。
しかも、お尋ね者の隠れ場ともなっていたらしく、ご年配の方ならきっとご存知の「毒婦 高橋お伝」も、東京から、生まれ故郷の利根郡水上へ逃げ帰る途中、ここに匿われたと書かれています。

近くで畑仕事をしている方に、
「ここに建っていたという、こんな建物を見たことがありますか?」とお聞きすると、
「あー、もう崩れかかってて危ないんで、確か十何年前に取り壊したんだいね。」と仰っていました。
まだ最近まで、あったんですね。
ちょっと勿体なく思いました。

この方に米街道のこともお聞きしてみました。
「米街道という名前は初めて聞いたけど、ここに橋が掛かってたっつぅ話は、親父に聞いたことがあるね。」
ということでした。

これが、対岸の米街道です。

この後、米街道は北上し、前橋・長瀞線元島名・倉賀野線の合流点付近に出てさらに北上し、京ヶ島小学校の東側を通って、昭和大橋のたもとに出たようです。

そこからは、総社→大久保→八木原→渋川に至る三国古道(別名:佐渡奉行街道)を経て、遥か三国峠を越えて越後まで行ったと思われます。

宿場から宿場をまさに驛伝で送り継ぐとはいえ、越後から倉賀野までの長道中、本当に米を運んだのだろうかと、信じられない気持ちです。

田島桂男氏著「たかさき町しるべ」によると、「大類」という地名は井野川の氾濫原を表す「大流井」がもととなっているといいます。
川の氾濫は肥沃な土地を生みだすといいますから、大類地区も古くから穀倉地帯であったでしょう。

もしかすると、米街道というのは大類の米を倉賀野まで運ぶ道だったのではないかと、軟(やわ)な現代人の私は思ってしまうのですが・・・。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※この記事を脱稿後、「米街道を辿って(1)」に、ふれあい街歩きさんから次のようなコメントを頂きました。

「米街道という点では柴崎で交差する大類から高崎城下への道も、高崎藩有数の穀倉地帯である大類の村々から高崎藩の米蔵に年貢米を輸送する米街道であったと想像します。」

確かに、そう考える方が自然かも知れません。
ふれあい街歩きさん、ありがとうございました。


【米街道の立場茶屋跡】

【米街道を辿る散歩道 新・旧道比較地図】


タグ :高崎米街道

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Posted by 迷道院高崎 at 07:40
Comments(4)米街道
この記事へのコメント
たびたび恐縮です。

「高崎市史研究」の中に高崎藩の年貢米についての研究が載っていますが、当時、江木村や大類の村々から高崎へ年貢米を納める様子が史料に示されていて興味深いです。


越後からの廻米に三国街道、倉賀野河岸を利用したと私も思います。越後でも日本海沿いでは北前船を使って廻米するのでしょうが、長岡藩以南では三国街道ルートが最短距離であり、北信地域の諸藩の年貢米も陸路倉賀野へ運ばれた事例からも有り得ることと思います。
その点でこの南北につきながる米街道は高崎城下の混雑を回避した最短ルートで重要な役割をしていたのではないでしょうか。


今回の街道とは話題がずれますが、佐渡奉行街道といい、米街道といい皆、高崎城下を避けるところが面白いですね。
有力な大名がいる城下町は何かと通り抜けにくいところがあるのでしょうか。

明治18年の前橋町の地図に「從新潟縣至山梨縣」とスケールの大きな記載のある道路が描かれています。前橋の中心街を縦断して六供村、上佐鳥村を経由して玉村の上新田へ利根川東岸を抜ける幹線道路のようです。その先はおそらく今の長瀞線につながると思われますが、この道も高崎を大きくパスしています。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年08月23日 15:01
>ふれあい街歩きさん

ほほー、そうなんですかー!
越後から倉賀野まで、気の遠くなるような距離ですけどねー。
何日くらいかけたものなんでしょうか?
日光例幣使は、京都から日光まで、きっちり15日の日程だったようですが・・・。
いずれにしても、私の足では無理です。

高崎城下を避けて通ると言うのも、面白い話ですね。
それほど、当時の高崎城下は混雑していたんでしょうか。
それとも、やたらと木戸があって通りづらかったのでしょうか。

一度、タイムマシンに乗って、見に行きたいものですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年08月23日 19:13
>迷道院高崎様


江戸時代の旅人の一日の移動距離は結構長く、東海道の例で云うと大人男性が早朝日本橋を出発して夕方、戸塚宿に到着したそうです。2泊目は小田原宿に3泊目は箱根を越えて三島宿。1日40キロくらいでしょうか、想像以上に健脚だったようです。



江戸時代の史料によれば、地域によって規則やしきたりの厳しい場所とゆるい場所が錯綜していて、旅行者はなるべくゆるい地域を選んでいたようです。関所や宿場にもそれぞれ厳しい、ゆるいがあったようですね。
高崎は商都として「御江戸見たくば高崎田町」と言われる程賑わいをみせていたようですが、宿場町としては本陣、脇本陣もなく旅籠も少なかったことから、旅人には敬遠されていたそうです。(旅人は板鼻宿、倉賀野宿を好んだ)
何故、高崎宿が敬遠されていたのか具体的な理由は不明ですが、一般的に格式のある大名の城下町は風俗の取り締まりがやかましかったり、参勤交代で通過する大名は挨拶に伺わなければならなかったり煩わしいことがあったようです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2009年08月23日 20:11
>ふれあい街歩きさん

1日40キロ!
昔の人の歩き方は「ナンバ歩き」だと聞きましたが、その方が疲れずに歩けるのでしょうか?
古武道の甲野善紀さんも、そんなことを言っていたように思いますが。

高崎御伝馬事件は、飯盛女を宿に置かせろ置かせないの騒ぎだったそうですから、仰るように風俗取り締まりの厳しいところだったんでしょうね。
男にとっては、ちょっと足を延ばして倉賀野か板鼻だった訳ですか。

それにしても、ふれあい街歩きさんの博識なのには驚きです。
これからも、よろしくお付き合いください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年08月23日 21:07
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