2009年07月29日

ひっそりと・・・

柳原観音堂入口の水路のほとりに、ひっそりと石碑が建っています。

あ、話は逸れますが、この水路には「地獄堰」という、恐ろしげな名前が付いています。

さて、話を石碑に戻しましょう。

「義全師碑」という銘が刻まれていますが、碑文はすべて漢文で、なんのことやらさっぱり分かりません。
(あ、それで分からないことを、「チンプン漢文」と?・・・ちがうか・・・。)

なので、五万石騒動史跡巡りの時、高崎市史編纂委員の中村茂先生に頂いた資料を参考にさせて頂きました。

元水戸藩士の小園江義全(おぞのえ・ぎぜん)という人が、ある日、武人の虚しさを感じて突然出家し、諸国遊歴の旅に出たのだそうです。
そして文化十一年(1814)この南大類の地に来た義全は、村人の願望で柳原観音の別当となってここに住み着き、寺子屋を開いて村人の教育にあたったといいます。
石碑は、その功績を讃えたものなのですね。
すべて漢文で書かれているのも、水戸学の影響を受けたものでしょうか。

義全の子が小園江丹宮(おぞのえ・たみや)といい、父の後を継いで村人たちの教育にあたりました。
その教育を受けた村人の中に、五万石騒動の中心的人物(高井喜三郎、佐藤三喜蔵、丸茂元次郎等)がいます。
訴願に至るまでの用意周到さ、組織運営の緻密さ、統率の見事さなど、丹宮からの指導あってのことといわれています。

丹宮とともに、五万石騒動の影の指導者といわれているのが、進雄神社の神官・高井左衛門大夫です。
そして、その一族である高井喜三郎が、大総代になっている訳です。
当時のこの地区の文化度の高さには、本当に驚かされます。

訴願成就を見ぬまま、刑場の露と消えた高井喜三郎の墓は進雄神社の400mほど西にありますが、大通りから入り込んでいるので、知る人は少ないようです。

墓の傍らに、辞世の句碑が建っています。
     「吾(われ)人の 為ともなれと身を捨てて
           いまいけにへ(生け贄)と なるぞうれしき」


今、世間は、来たる衆院選に向けて、大騒ぎになっています。
神社に必勝祈願をする候補者も多いと思いますが、喜三郎の墓に詣でて、心静かにこの辞世の句を噛み締めた方が、ご利益があるのではないでしょうか。

【高井喜三郎の墓】


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