
ただ、近くに立つ説明看板をじっくり読んだという高崎市民は、意外と少ないのではないでしょうか。
看板には、こんなことが書かれています。
「幸いにこれ(乾櫓)が保存されていたのは、明治初年に払い下げられ、下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。」

委員の一人、本多夏彦氏所蔵の「旧高崎城各部実測図」と照合したところ、「乾櫓」だということが判明したということです。(「開化高崎扣帖」より)
ただ、「乾櫓」発見時には、図面にある「しゃちほこ」が屋根に付いていませんでした。
これについては、説明看板にこのように書かれています。
「屋根の『しゃちほこ』は、栗崎町の五十嵐重五郎氏宅に現存する、もと高崎城のものを模造したものである。」
・・・ということは、栗崎町に行けば、本物の高崎城の「しゃちほこ」に会えるということですね。
これは、探しに行かない訳に行きません。
愛車「赤ちゃり」に打ち跨って、栗崎町を探索したのですが、なんせ、この地域は五十嵐姓だらけです。
しかも、どの家もどの家も、立派な門を構えているのです。

付いてます、付いてます、「しゃちほこ」!!
高崎城には、「しゃちほこ」の付いた門が、八つあったそうです。

これも探し回りましたが、何と「隠れマリア」の地福院のすぐ近くでした。
情報では、この門は旧高崎城の烏川に面した西門(裏門)とありますので、おそらく「刎橋(はねばし)御門」であろうと思います。
ご主人に、この門の由来をお聞きすることができました。
「明治四年(1871)の廃藩置県の時、初代高崎市長の矢島八郎の勧めで、村長だったこの家に移築した。
高崎城の後ろの烏川から、筏で岩鼻まで運んだ。」
ということです。
もしかすると、まだまだどこかの民家に高崎城が残っているかもしれません。
心当たりのある方は、ぜひとも市・文化財保護課にご連絡願いたいと思います。
(参考図書:「高崎城絵図」「岩鼻地区の歴史的遺産を写真でつづる」
「高崎の散歩道」「開化高崎扣帖」)
「高崎の散歩道」「開化高崎扣帖」)
【復元された「乾櫓」】
【栗崎町 高崎城の「しゃちほこ」】
【台新田町 高崎城の「裏門」】