岩鼻町の信号を、東に下っていく道が旧中山道です。
昔の旅人は、みんなこの坂を上り下りしていたのです。
一度、歩いてこの坂を下ってみてください。
一瞬、時空空間に迷い込んだかと思うほど、昔の趣きが残っているのに驚くことでしょう。
坂を下り始めるとすぐ右側に、北向きの「子育て観世音」の社があります。
小じんまりしたお堂ですが、毎年夏になると「子育て観世音大祭 奉納煙火大会」が盛大に催されます。
もっとも、この境内で花火を上げると大変なことになるので、近くの烏川の河原でですが・・・。
「子育て観世音」脇の細道へ入ると、そこも時空空間でした。
街道へ戻って、坂の上を振り返ると、振り分け荷物を肩にかけた旅人が、今にも現れそうな不思議な感覚を覚えます。
坂を下りきったところにも、時空空間はあります。
電信柱や電線や無粋な看板がなかったら、そこはもう江戸時代です。
・・・と、いきなり車が目の前を走り抜け、現実に引き戻されました。
カーブミラーに隠れるように、「旧中山道」の看板があります。
昔は堤防もなく、ここから烏川の河原に出ると、対岸の中島村との間を、舟で渡る「柳瀬の渡し」があったそうです。
右の写真を拡大すると、川の流れが白くなっているところが分かるでしょうか。
これは、「柳瀬の渡し」跡に掛けられた木橋(旧々柳瀬橋)の名残だそうです。
「柳瀬の渡し」の少し下流には、こんなものも建っていたそうです。
南無妙法蓮華経と刻まれたこの石は、烏川の河原にあったという刑場で処刑された人の供養塔です。
(現在は、観音寺の境内に移されています。)
牢獄から遠いにも拘らず、わざわざ往来の激しい中山道の、しかも渡し場の近くに刑場を設けたのは、見せしめの意味があったのでしょう。
斬首した首は、竹の先に刺して、晒し首にしたといいます。
晒し首に使ったり、刑場や牢獄の矢来(囲い)に使うため、この付近一帯には竹林が多かったそうです。
そういわれると、現在の土手下にも竹がたくさん生えています。
そんな土地の歴史を知ってしまうと、懐かしい風景を見ても複雑な思いになってしまいますね。
昔の旅人は、みんなこの坂を上り下りしていたのです。
一度、歩いてこの坂を下ってみてください。
一瞬、時空空間に迷い込んだかと思うほど、昔の趣きが残っているのに驚くことでしょう。
坂を下り始めるとすぐ右側に、北向きの「子育て観世音」の社があります。
小じんまりしたお堂ですが、毎年夏になると「子育て観世音大祭 奉納煙火大会」が盛大に催されます。
もっとも、この境内で花火を上げると大変なことになるので、近くの烏川の河原でですが・・・。
「子育て観世音」脇の細道へ入ると、そこも時空空間でした。
街道へ戻って、坂の上を振り返ると、振り分け荷物を肩にかけた旅人が、今にも現れそうな不思議な感覚を覚えます。
坂を下りきったところにも、時空空間はあります。
電信柱や電線や無粋な看板がなかったら、そこはもう江戸時代です。
・・・と、いきなり車が目の前を走り抜け、現実に引き戻されました。
カーブミラーに隠れるように、「旧中山道」の看板があります。
昔は堤防もなく、ここから烏川の河原に出ると、対岸の中島村との間を、舟で渡る「柳瀬の渡し」があったそうです。
右の写真を拡大すると、川の流れが白くなっているところが分かるでしょうか。
これは、「柳瀬の渡し」跡に掛けられた木橋(旧々柳瀬橋)の名残だそうです。
「柳瀬の渡し」の少し下流には、こんなものも建っていたそうです。
南無妙法蓮華経と刻まれたこの石は、烏川の河原にあったという刑場で処刑された人の供養塔です。
(現在は、観音寺の境内に移されています。)
牢獄から遠いにも拘らず、わざわざ往来の激しい中山道の、しかも渡し場の近くに刑場を設けたのは、見せしめの意味があったのでしょう。
斬首した首は、竹の先に刺して、晒し首にしたといいます。
晒し首に使ったり、刑場や牢獄の矢来(囲い)に使うため、この付近一帯には竹林が多かったそうです。
そういわれると、現在の土手下にも竹がたくさん生えています。
そんな土地の歴史を知ってしまうと、懐かしい風景を見ても複雑な思いになってしまいますね。
(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」「同 第三集」「図説 高崎の歴史」)
【北向き子育て観世音】
【柳瀬の渡し跡】
【観音寺(処刑供養塔)】
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