2009年07月01日

浅間か岩鼻か?

浅間か岩鼻か?群馬の森の中程に、「我が国ダイナマイト発祥の地」と刻まれた大きな石碑があります。

裏側の碑文には、次のように記されています。

「ここ、旧岩鼻火薬製造所の歴史は、明治十二年(1879)に始まる。
富国強兵、産業の振興をはかり、(略)当時としては唯一の動力源である水車の利用に適し、水利と水運に恵まれ、東京にも近いこの地に建設を決定した。」


群馬県の明治百年記念行事として、昭和四十八年(1973)「群馬の森」が開設されたのに合わせ、旧岩鼻火薬製造所の従業員、遺族、関係者の有志一同により、この碑が建立されました。

当初、黒色火薬を製造していた岩鼻火薬製造所が、国産ダイナマイトの製造を開始するきっかけとなったのは、明治三十七年(1904)の日露戦争・旅順攻略です。

難攻不落のロシア要塞を陥落できたのは、当時、なけなしの外貨で輸入をしていたダイナマイトの威力でした。
そこで、明治三十八年(1905)、岩鼻火薬製造所国産ダイナマイトの製造が開始されることになります。

浅間か岩鼻か?岩鼻という地名は、断崖が鼻のように川に突き出ているところだからといわれています。

岩鼻烏川井野川が合流する地域で、水量は豊富でした。
今でも、写真のように、合流点は大河の様相を呈しています。
明治初期には倉賀野河岸もまだ盛んでしたから、川面を舟が行き来する姿も見られたのでしょう。

豊富な水量はまた、不慮の爆発事故や火災に備える意味でも、必要だったのかも知れません。
事実、明治十二年(1879)の創業以来、昭和七年(1932)までの爆発事故で28名の犠牲者を出しているそうです。

浅間か岩鼻か?浅間か岩鼻か?昭和七年には、その殉職者慰霊のため、岩鼻代官所跡の天神山山上「殉職者之碑」が建てられました。

また、近くの観音寺には、殉職された方々の遺骨や、遺品を拾い集めて供養した「殉職者供養塔」も建てられています。

しかし、手厚い慰霊や供養にも関わらず、その後も爆発事故は続きます。
昭和十年(1935)代には浅間山もよく爆発したようで、高崎近辺の人々は「ドーン!」という爆発音がすると、外へ飛び出して「浅間か岩鼻か?」を確かめたといいます。

爆発事故も悲惨ではありますが、爆発しなかったために自らの命を絶った人もいます。
明治二十七年(1894)に勃発した日清戦争で、岩鼻火薬製造所に火薬の増産命令が下ります。
全力を尽くして製造したにもかかわらず、いくつかの弾丸が戦場で不発弾となってしまい、初代所長の町田実秀は責任をとって自刃したといいます。

浅間か岩鼻か?観音寺の墓地に眠っていると聞き、お墓を探してみましたが、見つかりませんでした。
お寺の奥様にお聞きしても分からなかったので、もしかするともう無縁仏として、始末されてしまったのでしょうか。

浅間か岩鼻か?観音寺の墓地には、初代岩鼻代官吉川栄左衛門の墓があり、市指定史跡になっています。

町田実秀の墓もそうあってほしかったものです。


さらに言えば、旧陸軍岩鼻火薬製造所跡地全体を、現在非公開の当時の施設も含めて、平和を考えるための戦争遺跡として整備・保存し、後世に語り継いでいってほしいとも思います。

最後に、岩鼻火薬所の爆発事故を体験した人の話をご紹介しましょう。
(高崎市史民俗調査報告書第七集より)
------------------------------
大正十二年(1923)の関東大震災、九月一日ですけどね、
その次ぐ年の九月の一日には、岩鼻の陸軍の火薬製造所、
あの火薬庫んなかにね、火が入ったっていうことで、
大変な騒ぎがあったんですよ。

自分たち、小学校の頃でね、ちょうど朝礼で校長先生の話ぃ聴いてたら、
そこへ、火薬製造所の方から知らせてきたんです。

自転車で夢中で来てね、早く子どもたちを家へ帰せってんですよ。
そいでね、早くしろ早くしろって。
四里四方はだめだからって。

「それっ」てんで、みんな岩鼻の人たちもね、
ぞろっこぞろっこね、倉賀野まで逃げてきたんですよ。

で、おれたちも、家へ帰らないで高崎の方ぃね、
並木の方へ逃げろってんで、
それで、小学校からさぁ、ぞろぞろ逃げてったん。

しょうがねぇから、もうみんな一所懸命逃げたんだけど、
くたぶれちゃって、正六ぐれえまで行って、
もうだめだってんでさ、そこんとこで休んでた。

そうしたら、こんだ、消防組合のほうからね、
火が消えたから、みんな家へ帰るようにってんで、
それで帰ったんだけど。
(倉賀野町下町 大正五年生まれ)
------------------------------
(参考図書:「高崎の散歩道 第三集」「高崎市史民俗調査報告書第七集」)

【ダイナマイト碑】


【天神山】


【観音寺】


同じカテゴリー(◆高崎探訪)の記事画像
史跡看板散歩-159 土俵の八坂神社石宮
史跡看板散歩-158 土俵の庚申塔
史跡看板散歩-157 神保雪居の碑
史跡看板散歩-156 金古町の行人塚と大ケヤキ
史跡看板散歩-155 中新田の秋葉様と石神群
史跡看板散歩-154 生原の厳島神社
同じカテゴリー(◆高崎探訪)の記事
 史跡看板散歩-159 土俵の八坂神社石宮 (2019-10-13 07:20)
 史跡看板散歩-158 土俵の庚申塔 (2019-10-06 07:48)
 史跡看板散歩-157 神保雪居の碑 (2019-09-29 07:32)
 史跡看板散歩-156 金古町の行人塚と大ケヤキ (2019-09-22 07:24)
 史跡看板散歩-155 中新田の秋葉様と石神群 (2019-09-15 07:10)
 史跡看板散歩-154 生原の厳島神社 (2019-09-08 07:04)

この記事へのコメント
近くの墓地でお墓の改修工事をした時、施主の方が行ってたっけ・・・。
「陸軍がうちの畑を今日から使うって言ったら逆らえなくてね~。で、しょっちゅう爆発事故でしょ。家なんて爆風であっちが壊れたりこっちが壊れたり・・・。どうせまた壊れるから直さないでそのまま住んでた。」
太平洋戦争当時のお話でしょうね。
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年07月01日 07:20
やはり高崎は「交通の要衝」としての発展なんですよね。
栄えるにはそれなりの意味があるわけで、
意味もなく人口は増えたりはしない。
しかし、現在は気がつくと「無理やりに」栄えさせようとしている。
「自然のままに」
本来あるべき役割をきちんと思い出すことで、地域は自ずと発展・活性化するのではないか。
そんなことを思わずにはいられない文章でした。

ありがとうございます。
Posted by くみちょう  at 2009年07月01日 08:58
>弥乃助さん

さすが、弥乃助さん!
だてにお墓をいじってませんねー!
本当に、岩鼻の人は大変だったと思いますよ。
火薬所に勤めてた人も多かったでしょうから、文句も言えなかったでしょうしね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年07月01日 20:22
>くみちょうさん

そうですね。
歴史散歩をしてると、昔の人の自然の利用の仕方って、本当に優れてると気づかされます。
人間は、自然を利用したり壊したりはできても、創り出すことはできないんですよね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年07月01日 20:28
たとえどんなに小さなことでも、
われわれが歴史になるよう努めるべきですね。
今の世の中はあまりにも悲しい・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年07月01日 21:16
>昭和24歳さん

歴史民俗資料館の方も、民衆の歴史をもっと残していきたいというような話をされてました。
視点を変えると、また別の歴史が見えてきそうな気がしますね。
意外と、民衆ってしたたかにその時代時代を生き抜いてます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年07月02日 07:39
>観音寺の墓地には、初代岩鼻代官吉川栄左衛門の墓があり

ここのところ、週末も東京での研究会などで忙しく、26日のお彼岸最後の日に、久し振りに実家のお墓参りに帰って来ました。

一人でノンビリと、新しく整備された観音寺を眺めたりしながら墓参りをしたのですが、実家の墓の右隣に吉川栄左衛門の墓があったのでした(忘れていました)。

今度、私のブログに写真をUPしますので、見て下さい(笑)
Posted by キレイズキ  at 2010年09月28日 08:23
>キレイズキさん

そうでしたか、吉川栄左衛門の隣がそうだったんですか。

火薬所初代所長の町田実秀氏のお墓もあった
はずなんですが、見つかりませんでした。
ご存知でしたら、教えてください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年09月28日 08:51
戦争中に父が岩鼻で国の火薬製造の仕事に携わっていました。

死んだ母が献眼をしましたが、群馬の献眼者の碑が、群馬の森にあります。

そんな縁で、群馬の森には、たびたび行っています。
Posted by 青史  at 2019年09月11日 19:40
>青史さん

そうですか!
群馬の森に「献眼者の碑」があるというのは知りませんでした。
今度行った時、探してみます。
情報ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2019年09月11日 20:13
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
浅間か岩鼻か?
    コメント(10)