群馬の森の中程に、「我が国ダイナマイト発祥の地」と刻まれた大きな石碑があります。
裏側の碑文には、次のように記されています。
「ここ、旧岩鼻火薬製造所の歴史は、明治十二年(1879)に始まる。
富国強兵、産業の振興をはかり、(略)当時としては唯一の動力源である水車の利用に適し、水利と水運に恵まれ、東京にも近いこの地に建設を決定した。」
群馬県の明治百年記念行事として、昭和四十八年(1973)「群馬の森」が開設されたのに合わせ、旧岩鼻火薬製造所の従業員、遺族、関係者の有志一同により、この碑が建立されました。
当初、黒色火薬を製造していた岩鼻火薬製造所が、国産ダイナマイトの製造を開始するきっかけとなったのは、明治三十七年(1904)の日露戦争・旅順攻略です。
難攻不落のロシア要塞を陥落できたのは、当時、なけなしの外貨で輸入をしていたダイナマイトの威力でした。
そこで、明治三十八年(1905)、岩鼻火薬製造所で国産ダイナマイトの製造が開始されることになります。
岩鼻という地名は、断崖が鼻のように川に突き出ているところだからといわれています。
岩鼻は烏川と井野川が合流する地域で、水量は豊富でした。
今でも、写真のように、合流点は大河の様相を呈しています。
明治初期には倉賀野河岸もまだ盛んでしたから、川面を舟が行き来する姿も見られたのでしょう。
豊富な水量はまた、不慮の爆発事故や火災に備える意味でも、必要だったのかも知れません。
事実、明治十二年(1879)の創業以来、昭和七年(1932)までの爆発事故で28名の犠牲者を出しているそうです。
昭和七年には、その殉職者慰霊のため、岩鼻代官所跡の天神山山上に「殉職者之碑」が建てられました。
また、近くの観音寺には、殉職された方々の遺骨や、遺品を拾い集めて供養した「殉職者供養塔」も建てられています。
しかし、手厚い慰霊や供養にも関わらず、その後も爆発事故は続きます。
昭和十年(1935)代には浅間山もよく爆発したようで、高崎近辺の人々は「ドーン!」という爆発音がすると、外へ飛び出して「浅間か岩鼻か?」を確かめたといいます。
爆発事故も悲惨ではありますが、爆発しなかったために自らの命を絶った人もいます。
明治二十七年(1894)に勃発した日清戦争で、岩鼻火薬製造所に火薬の増産命令が下ります。
全力を尽くして製造したにもかかわらず、いくつかの弾丸が戦場で不発弾となってしまい、初代所長の町田実秀は責任をとって自刃したといいます。
観音寺の墓地に眠っていると聞き、お墓を探してみましたが、見つかりませんでした。
お寺の奥様にお聞きしても分からなかったので、もしかするともう無縁仏として、始末されてしまったのでしょうか。
観音寺の墓地には、初代岩鼻代官吉川栄左衛門の墓があり、市指定史跡になっています。
町田実秀の墓もそうあってほしかったものです。
さらに言えば、旧陸軍岩鼻火薬製造所跡地全体を、現在非公開の当時の施設も含めて、平和を考えるための戦争遺跡として整備・保存し、後世に語り継いでいってほしいとも思います。
最後に、岩鼻火薬所の爆発事故を体験した人の話をご紹介しましょう。
その次ぐ年の九月の一日には、岩鼻の陸軍の火薬製造所、
あの火薬庫んなかにね、火が入ったっていうことで、
大変な騒ぎがあったんですよ。
自分たち、小学校の頃でね、ちょうど朝礼で校長先生の話ぃ聴いてたら、
そこへ、火薬製造所の方から知らせてきたんです。
自転車で夢中で来てね、早く子どもたちを家へ帰せってんですよ。
そいでね、早くしろ早くしろって。
四里四方はだめだからって。
「それっ」てんで、みんな岩鼻の人たちもね、
ぞろっこぞろっこね、倉賀野まで逃げてきたんですよ。
で、おれたちも、家へ帰らないで高崎の方ぃね、
並木の方へ逃げろってんで、
それで、小学校からさぁ、ぞろぞろ逃げてったん。
しょうがねぇから、もうみんな一所懸命逃げたんだけど、
くたぶれちゃって、正六ぐれえまで行って、
もうだめだってんでさ、そこんとこで休んでた。
そうしたら、こんだ、消防組合のほうからね、
火が消えたから、みんな家へ帰るようにってんで、
それで帰ったんだけど。
裏側の碑文には、次のように記されています。
「ここ、旧岩鼻火薬製造所の歴史は、明治十二年(1879)に始まる。
富国強兵、産業の振興をはかり、(略)当時としては唯一の動力源である水車の利用に適し、水利と水運に恵まれ、東京にも近いこの地に建設を決定した。」
群馬県の明治百年記念行事として、昭和四十八年(1973)「群馬の森」が開設されたのに合わせ、旧岩鼻火薬製造所の従業員、遺族、関係者の有志一同により、この碑が建立されました。
当初、黒色火薬を製造していた岩鼻火薬製造所が、国産ダイナマイトの製造を開始するきっかけとなったのは、明治三十七年(1904)の日露戦争・旅順攻略です。
難攻不落のロシア要塞を陥落できたのは、当時、なけなしの外貨で輸入をしていたダイナマイトの威力でした。
そこで、明治三十八年(1905)、岩鼻火薬製造所で国産ダイナマイトの製造が開始されることになります。
岩鼻という地名は、断崖が鼻のように川に突き出ているところだからといわれています。
岩鼻は烏川と井野川が合流する地域で、水量は豊富でした。
今でも、写真のように、合流点は大河の様相を呈しています。
明治初期には倉賀野河岸もまだ盛んでしたから、川面を舟が行き来する姿も見られたのでしょう。
豊富な水量はまた、不慮の爆発事故や火災に備える意味でも、必要だったのかも知れません。
事実、明治十二年(1879)の創業以来、昭和七年(1932)までの爆発事故で28名の犠牲者を出しているそうです。
昭和七年には、その殉職者慰霊のため、岩鼻代官所跡の天神山山上に「殉職者之碑」が建てられました。
また、近くの観音寺には、殉職された方々の遺骨や、遺品を拾い集めて供養した「殉職者供養塔」も建てられています。
しかし、手厚い慰霊や供養にも関わらず、その後も爆発事故は続きます。
昭和十年(1935)代には浅間山もよく爆発したようで、高崎近辺の人々は「ドーン!」という爆発音がすると、外へ飛び出して「浅間か岩鼻か?」を確かめたといいます。
爆発事故も悲惨ではありますが、爆発しなかったために自らの命を絶った人もいます。
明治二十七年(1894)に勃発した日清戦争で、岩鼻火薬製造所に火薬の増産命令が下ります。
全力を尽くして製造したにもかかわらず、いくつかの弾丸が戦場で不発弾となってしまい、初代所長の町田実秀は責任をとって自刃したといいます。
観音寺の墓地に眠っていると聞き、お墓を探してみましたが、見つかりませんでした。
お寺の奥様にお聞きしても分からなかったので、もしかするともう無縁仏として、始末されてしまったのでしょうか。
観音寺の墓地には、初代岩鼻代官吉川栄左衛門の墓があり、市指定史跡になっています。
町田実秀の墓もそうあってほしかったものです。
さらに言えば、旧陸軍岩鼻火薬製造所跡地全体を、現在非公開の当時の施設も含めて、平和を考えるための戦争遺跡として整備・保存し、後世に語り継いでいってほしいとも思います。
最後に、岩鼻火薬所の爆発事故を体験した人の話をご紹介しましょう。
(高崎市史民俗調査報告書第七集より)
--------------------------
大正十二年(1923)の関東大震災、九月一日ですけどね、その次ぐ年の九月の一日には、岩鼻の陸軍の火薬製造所、
あの火薬庫んなかにね、火が入ったっていうことで、
大変な騒ぎがあったんですよ。
自分たち、小学校の頃でね、ちょうど朝礼で校長先生の話ぃ聴いてたら、
そこへ、火薬製造所の方から知らせてきたんです。
自転車で夢中で来てね、早く子どもたちを家へ帰せってんですよ。
そいでね、早くしろ早くしろって。
四里四方はだめだからって。
「それっ」てんで、みんな岩鼻の人たちもね、
ぞろっこぞろっこね、倉賀野まで逃げてきたんですよ。
で、おれたちも、家へ帰らないで高崎の方ぃね、
並木の方へ逃げろってんで、
それで、小学校からさぁ、ぞろぞろ逃げてったん。
しょうがねぇから、もうみんな一所懸命逃げたんだけど、
くたぶれちゃって、正六ぐれえまで行って、
もうだめだってんでさ、そこんとこで休んでた。
そうしたら、こんだ、消防組合のほうからね、
火が消えたから、みんな家へ帰るようにってんで、
それで帰ったんだけど。
(倉賀野町下町 大正五年生まれ)
--------------------------
(参考図書:「高崎の散歩道 第三集」)
【ダイナマイト碑】
【天神山】
【観音寺】