2009年06月26日

岩鼻/薩摩/元次郎・・・ん?

岩鼻/薩摩/元次郎・・・ん?岩鼻町交差点の西に、旧中山道を跨ぐ歩道橋があります。

この歩道橋の脇を南に入った突き当りが、昔、岩鼻代官所牢獄があった場所です。

明治になって、岩鼻代官所岩鼻県庁となり、明治四年(1871)の廃藩置県により岩鼻県庁が廃止された後も、牢獄岩鼻監獄として残りました。

岩鼻/薩摩/元次郎・・・ん?道の突き当たりは、現在、近藤医院となっています。

近藤家は、岩鼻監獄典獄(現在の刑務所長)を務めていました。

入口の両脇の石垣は、よく岩鼻監獄時代のものと言われますが、実際は明治二十年(1887)に岩鼻監獄跡地が近藤家に払い下げられた時に、作られたものだそうです。

岩鼻監獄といえば、五万石騒動の第二総代・丸茂元次郎山田勝弥が収監された所です。
明治四年(1871)、共に徒刑十年を科せられましたが、気の毒にも山田勝弥は服役中に病死してしまいます。

元次郎収監中の明治十年(1877)、岩鼻監獄に57名もの囚人達が送り込まれてきます。
遠く、薩摩の地で起きた西南戦争で敗北した西郷軍の俘虜達です。
この人達は、長崎から船で横浜まで送られ、そこからは陸路で岩鼻まで来たということです。
東京-高崎間に鉄道が開通したのは明治十七年(1884)ですから、横浜から歩かされて来たのでしょうか。

元次郎は、西南戦争の囚人達とも当然知り合いになります。
その内の一人に、鬼丸源作という物凄い名前の人がいました。
鬼丸は懲役1年だったので、元次郎よりも早く放免されますが、その時、獄中で書いたという狂歌を元次郎に渡したようで、今も丸茂家に残っているそうです。
監獄地獄と詠んでいますが、面白いのを、いくつかご紹介しましょう。

     しゃばにては 色と酒とを 好めども
       地獄に住めば 食うことぞ おもふ

     地獄から しゃばに生まれて 湯に入りて
       酒食したなら これが 極楽

     地獄より しゃばに生まれて 鬼どんが
       ただ壱合の 酒に ぐらぐら


岩鼻/薩摩/元次郎・・・ん?五万石騒動西南戦争も、日本という国が大きく転換する時代の悲劇といえましょう。
そんな二つの悲劇が出会った岩鼻監獄も、今はまったくその跡かけらも見当たりません。
後世に残しておくべき史跡だったのではないでしょうか。

そう思いつつ旧中山道に戻ると、道角に「陸軍用地」と刻まれた石柱を見つけました。
そうでした、明治十二年(1879)、陸軍岩鼻火薬製造所設置と同時に、岩鼻県庁跡地は、陸軍に接収されたのでした。

次回は、その跡地を散策してみましょう。

(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」)


【岩鼻監獄跡地】


【陸軍用地と刻まれた石柱】


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Posted by 迷道院高崎 at 07:53
Comments(13)高崎五万石騒動
この記事へのコメント
近藤医院の近くですね。
私のかかりつけなんです。
今度病気の際は探してみます。
あれ、変かな?
Posted by ぼらぼら  at 2009年06月26日 09:56
>ぼらぼらさん

へーっ!そうだったんですかー。
まさにその近藤医院さんの敷地が、払い下げを受けた土地なんです。

くれぐれも、無理に病気になって調べに行かないでくださいね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年06月26日 12:45
わ~、近藤の家の塀だ!

近藤医院、岩鼻小学校の同級生です!
Posted by 柳家紫文  at 2010年01月12日 12:14
そういえば、柳瀬橋から新柳瀬橋の間、柳瀬橋から三分の二くらい上流辺に水路がそそいでいるところを昔は「洗い端」(あらいばた)と呼んでいました。
斬首された人のを首を洗う所からだと聞いています。(そこで斬首されたのか、監獄でされたのかわかりませんが…)
紫文が子供の頃はゴミ捨て場でした。
Posted by 柳家紫文  at 2010年01月12日 12:36
紫文師匠

ほほーっ、ご同輩のお宅でしたかー!
縁は異なもの、本当に不思議なご縁ですね。

首を切った刀を洗った場所があるというのは、噂に聞いたことがありますね。
それがもしかすると「洗い端」なんでしょうか。
今の内に何とかしないと、そんな歴史があったということも、忘れ去られ、消えていってしまいますね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年01月12日 22:38
捨蚕さんのところから訪問しました。
この鬼丸源作さんの狂歌の和綴じを見つけたのが私です。
高校生の時、丸茂家を建てなおすので藁葺き屋根の家を壊すのを手伝いに行きました。
その頃は、重機がなく人手で壊していました。
古い物が沢山出てきましたが、それらを畑に持って行って燃やしていました。
近藤章先生から古い資料が有ったら捨てないで持ってくるように言われていたので、私は真剣に書類や書物を集めました。
今でも覚えていますが、あの綴りは土間に転がっていたのを拾って確保したものです。
それを近藤先生が「五万石騒動」の復刻版を出版するに当たって記録に残してくれたのです。
鬼丸源作さんは実名でした。
別の機会に報告します。
Posted by いちじん  at 2010年03月04日 08:34
>いちじん様

これは大変な方からコメントをいただきました!
そうだったんですかー、いちじんさんが発見されたんですか。
貴重なことでしたねー!

こんなリアルな話をお聞きできるのも、ブログならではですね。
コメンターの方々のおかげで、浅薄なブログに深みと広がりが出ます。
本当にありがとうございます!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月04日 08:57
>岩鼻監獄も、今はまったくその跡かけらも見当たりません。

迷道院さん、

近藤家の庭には、二羽ニワトリが居る・・・ではなく(笑)、岩鼻監獄時代の堀の一部が「池」としてそのまま残されています。

これは地元の郷土史家や県の博物館の方の間では結構知られていると思いますが・・。

近藤医院の石垣の石は、元を辿れば岩鼻監獄を囲んでいた堀の石垣の石なのではないでしょうか(最終的には二重の堀があったと聞いたような気がします)。
Posted by キレイズキ  at 2010年07月10日 00:46
>キレイズキさん

あ、堀の跡が池として残ってるんですか!
ちょうどお訪ねした時間が昼時にかかってしまって、中を見せて頂く事が出来ませんでした。残念!

石垣もそうか、石そのものは監獄時代のものという可能性はありますね。

もう一度お伺いして、確認しておきたいと思います。

情報、ありがとうございました!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月10日 06:24
写されていた監獄
明治11年の群馬

写真集「群馬世相100年」あかぎ出版
1992発行
32ページに
岩鼻町の已決檻囚人整列之図という
写真があります。
まだでしたら、持っていますので
ご覧になってください。
明治11年の明治天皇が群馬に
行幸しましたが、そのための
写真といわれています。

この写真の整列の中に
元治郎がいたのかもしれないと
想像しています。
Posted by いちじん  at 2010年07月10日 10:08
>いちじんさん

ありがとうございます、ぜひ、見せてください!

以前、「岩鼻地域の歴史的遺産を写真でつづる」という冊子に、監獄内部の写真が載っていたのを見たことがあるのですが。
たぶん内部の写真というのは、貴重な資料なんでしょうね。

明治十一年と言えば、まだ元治郎さんは中にいたはずですから、写ってるかも知れませんね。

こりゃ、すごいや!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月10日 19:17
「洗い端」のことです。

洗い端は、実家の敷地の西の端に位置します。

昨日、久し振りに実家に帰って母と少し話をしました。 その時に、洗い端のことを訊いてみたのですが、やはりそこで「首を洗った」ということはなく、洗濯などをしたところらしいですね。
だいたいにおいて、斬首した罪人の首を洗う習慣があったのでしょうか?

もちろん母が、その頃生きていた訳ではありませんから、母の父(私の祖父ですね)などから聞いたことでしょうけど。

「五万石騒動の「万屋」」に出てくる横倉興一先生は、私の小学校の時の担任だったこともあって、時々実家にいらして、昔の資料などもみていた様に記憶しています。

母方の祖父は、明治の生まれで、元々岩鼻の百姓だったので(今はガソリンスタンドやカラオケやさんになってしまっていますが、17号のバイパスの周りに結構広い田んぼがあって、田植えを見に行ったりしたのを覚えています)、岩鼻監獄のことも覚えていて、それを横倉先生に話していたと思います。

ですから、母は「洗い端」のことは、祖父から聞いていたのではないでしょうか。
Posted by キレイズキ  at 2010年09月03日 13:03
>キレイズキさん

「洗い端」は、伝説でしたか(^^)
ちょっぴり残念な気持ちもしますが・・・。

巷の噂が、さも真実のように定着しちゃうというのは、昔も今も変わらないのかもしれませんね。

五万石騒動の中で、佐藤三喜蔵を捕えた岩造一家が営んでいたという「三国屋」というのが、どこにあったのか、いまだに分かりません。

どなたか、ご存知の方はいないでしょうかね?
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年09月03日 21:07
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