前回、「梅乃木大神と五万石騒動」で予告した岩鼻宿の「万屋」が、どこにあったのか知りたくなって、高崎市歴史民俗資料館へ行ってお尋ねしてみました。
すると、流石です。
平成20年に資料館で企画した「史跡巡り 岩鼻」の資料を持ってきて下さいました。
その資料の表紙には、横倉興一氏作成の「岩鼻代官所(陣屋)想像図」というのが掲載されおり、そこに、「萬屋(よろずや)」というのが描かれているではありませんか。
意外と、代官所つまり岩鼻県庁のすぐそばに「万屋」はあったのです。
この「万屋」が五万石騒動の舞台となったのは、大総代・柴崎村の高井喜三郎が捕えられた明治二年(1869)のことです。
「三国屋」岩造一家の岡っ引き達は、倉賀野宿外れ梅の木で大総代・下中居村の佐藤三喜蔵を捕えた直後、岩鼻宿の「万屋」へ高井喜三郎の捕縛に向かいます。
「万屋」に踏み込むと、喜三郎はじめ岩鼻県庁へ来た名主達約20人ほどが茶を飲みながら雑談中でしたが、間抜けなことに岡っ引き達は喜三郎の顔を知らなかったのです。
そこで「喜三郎気をつけ!」と声を上げると、喜三郎は狼狽してこの場から逃げ出そうとします。
それを見て「あれが喜三郎に違いない!」と、一斉に飛びかかり、取り押さえてしまいます。(細野格城著・佐藤行男氏訳「高崎五万石騒動」より)
現在、岩鼻代官所跡地の広大な敷地は日本化薬の社員寮となり、代官所の面影をわずかに残しているのは、天神山古墳だけになってしまいました。
天神山の麓には、昭和三十九年(1964)当時の代官所跡地周辺地図看板が立っています。
(朱記部分は、迷道院加筆)
「万屋」のあったと思われるところに、マークを付けてみました。
そこから南(右)へ目を移してみると、「牢」と書かれているのに気が付きます。
代官所時代の牢獄があった場所です。
明治四年(1871)に岩鼻県庁が廃止され、翌年、陣屋が焼失した後も「岩鼻監獄」として、明治二十一年(1888)に現前橋刑務所が開設されるまで使われました。
この「岩鼻監獄」はまた、五万石騒動の第二総代・上中居村の丸茂元次郎が、十年の刑を言い渡されて収監された所でもあります。
次回は、その丸茂元次郎についてお話ししようと思います。
すると、流石です。
平成20年に資料館で企画した「史跡巡り 岩鼻」の資料を持ってきて下さいました。
その資料の表紙には、横倉興一氏作成の「岩鼻代官所(陣屋)想像図」というのが掲載されおり、そこに、「萬屋(よろずや)」というのが描かれているではありませんか。
意外と、代官所つまり岩鼻県庁のすぐそばに「万屋」はあったのです。
この「万屋」が五万石騒動の舞台となったのは、大総代・柴崎村の高井喜三郎が捕えられた明治二年(1869)のことです。
「三国屋」岩造一家の岡っ引き達は、倉賀野宿外れ梅の木で大総代・下中居村の佐藤三喜蔵を捕えた直後、岩鼻宿の「万屋」へ高井喜三郎の捕縛に向かいます。
「万屋」に踏み込むと、喜三郎はじめ岩鼻県庁へ来た名主達約20人ほどが茶を飲みながら雑談中でしたが、間抜けなことに岡っ引き達は喜三郎の顔を知らなかったのです。
そこで「喜三郎気をつけ!」と声を上げると、喜三郎は狼狽してこの場から逃げ出そうとします。
それを見て「あれが喜三郎に違いない!」と、一斉に飛びかかり、取り押さえてしまいます。(細野格城著・佐藤行男氏訳「高崎五万石騒動」より)
現在、岩鼻代官所跡地の広大な敷地は日本化薬の社員寮となり、代官所の面影をわずかに残しているのは、天神山古墳だけになってしまいました。
天神山の麓には、昭和三十九年(1964)当時の代官所跡地周辺地図看板が立っています。
(朱記部分は、迷道院加筆)
「万屋」のあったと思われるところに、マークを付けてみました。
そこから南(右)へ目を移してみると、「牢」と書かれているのに気が付きます。
代官所時代の牢獄があった場所です。
明治四年(1871)に岩鼻県庁が廃止され、翌年、陣屋が焼失した後も「岩鼻監獄」として、明治二十一年(1888)に現前橋刑務所が開設されるまで使われました。
この「岩鼻監獄」はまた、五万石騒動の第二総代・上中居村の丸茂元次郎が、十年の刑を言い渡されて収監された所でもあります。
次回は、その丸茂元次郎についてお話ししようと思います。
【岩鼻代官所跡】