2009年05月13日

「亀石」と「飯玉さま」

今日の話は長くなりそうです。

「亀石」と「飯玉さま」←前回ご紹介した「飯玉さま」に出てくる「鳥啄池(とりばみのいけ)跡」に置かれている石ですが、「平亀石」と言うそうです。

そういわれると、亀に見えてくるから不思議ですね。

でもこの「平亀石」は、前回書いた御魂代(みたましろ)の「亀石」とは別物です。
「亀石」は今でも本殿に大切に奉安されているそうですが、残念ながら御開帳はしていないとのことです。

また、これも前回書いたことですが、「亀石」「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」の分霊で、そこから倉賀野神社のご祭神は「大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)」とされております。

ところで「飯玉さま」のことですが、「飯玉」と名のつく神社はどうも群馬県に多いようです。
群馬県神社名鑑によると県下に27社、内、高崎は4社が「飯玉神社」という名称だそうです。
何となく「ご飯」に関係ありそうな名前ですが、実はその通りで、ご祭神の多くは食物の神様「保食神(うけもちのかみ)」です。
この神様は、日本書紀にこんな神話として登場します。

~……~……~……~……~……~……~……~……~

「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が、「月夜見尊(つくよみのみこと)」「保食神(うけもちのかみ)」という神を見てくるように命じました。
「保食神」は、「月夜見尊」をもてなすために、米飯や魚や肉をを用意するのですが、何とそれを口から吐き出したというのです。
それを見た「月夜見尊」は怒って、「保食神」を斬り殺してしまいます。
今度は、そのことを聞いた「天照大神」「月夜見尊」を怒ります。
「もうお前とは会いたくない。」と言って、それ以降、太陽と月は別々に出るようになったのだそうです。
そして、斬り殺された「保食神」の遺体からは、いろいろな穀物や牛馬、蚕が生まれ出たといいます。


~……~……~……~……~……~……~……~……~

さて、ここからは私のまったくの推論、私論です。
なぜ「亀石」を御魂代(みたましろ)とした神社に、「保食神」つまり「飯玉さま」の言い伝えが残っているのかという謎解きです。

「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」が祀った「亀石」は、東国平定の戦いを無事務めるための神様でした。
倉賀野神社の社殿は、それより下ること1300年後の建長五年(1253)に倉賀野城主・倉賀野三郎高俊が建替えたと言われています。
そして、社名を「飯玉大明神」と呼ぶようになったのは、さらに下って江戸時代のことです。
その頃には、「亀石」「雨乞い石」として信仰されるように変わってくるのです。

神社は、その時々の人々の願いや祈りの場として存在します。
戦の絶えない時代にあっては、その勝利のためや災厄を免れるための祈りの場となり、平時にあっては、五穀豊穣や平穏な暮らしを祈る場として、変化していったと思われます。

「飯玉縁起」「八郎大蛇」が過去の恨みを悔い改めて「龍神」になったという話は、それを裏付けているような気がします。
「龍神」は水の神様です。
「龍神になって烏川の辺に飛び去った」というのも、稲作に必要な水の恵みと関係するでしょう。
「亀石」「雨乞い石」になったというのも、稲作と大いに関係がありそうです。
考えてみれば、「倉賀野」という地名も、「穀物を格納する倉のある喜ばしい平野」というのを連想させます。

しかし、「飯玉大明神」が、再び「大国魂神社」と社名を変える時がきます。
明治十年(1877)、日本最後の内戦「西南戦争」のあった年です。
その後、明治二十七年(1894)には日清戦争、明治三十七年(1904)には日露戦争が勃発します。
そして、明治四十三年(1910)に「倉賀野神社」と改称されますが、それでも昭和二十年(1945年)まで断続的に戦争は続きました。

曲がりなりにも太平の世が続いている今、「妬まず、恨まず、民のため」という「飯玉縁起」の教えを語り継ぐために、「飯玉さま」という呼び名を復活してはいかがでしょうか。

長い記事を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

【倉賀野神社】



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Posted by 迷道院高崎 at 08:04
Comments(8)倉賀野
この記事へのコメント
ご都合主義で塗り替えられる歴史・・・・・

江戸太平も、いわば薩長薩摩の歴史に塗り替えられました。
ところで、図書館と医療センター建設が始まりましたけど、その総予算は80億円ほどだそうです。どう建設は、市役所新庁舎建設の一環でした。しかし景気の低迷を理由に先延ばしでしたけど、百年に一度の金融危機の今、再会です。すでに候補地は競馬場跡、高崎操作場跡、高崎ハム跡地とか市有地にあったのをですが、平成18年に18億円とかで日本たばこ産業から買ったそうです。もちろん借金です。
まあ、しかし分からないのが、あそこは元々国有地ではなかったのでしょうか。つまり、高崎城址、維新後は明治政府の歩兵十五連隊でしたね。それがいつ旧専売公社、現、日本たばこ産業の土地になったんでしょうか。
駅西口にある、東横インのところも旧専売公社、つまり国有地だったのを払い下げたことになっています。
なぜ国有地のはずの旧専売公社跡地を18億円という相場で高崎市(土地公社)が買わなければならないのでしょうか・・・・・
不思議でなりません。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年05月13日 13:06
>昭和24歳さん

為政者による歴史とは別に、「庶民史」というようなものを語り継いでいく必要がありますね。

実現するかどうか定かではありませんが、道州制になって税源が地方に移譲されたら、税金の10%は納税者が使途を指定できるような制度にしたいものですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年05月13日 20:17
政治的に政府が神社を利用していた時代ですね。
日本は神の国ってことで・・・。
平和な今、飯玉神社にするのもいいですね。
飯塚や琴平神社のところにもありますね。
それぞれの飯玉神社をつないで、平和の象徴なんて・・・、できるかな?
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年05月13日 20:44
>弥乃助さん

もともと神様って庶民のものだったはずです。
道端に転がってる石ころにも神様が宿ってるって考え、好きだなー。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年05月13日 20:53
一度だけバリ島に行ったことがあります。
すべてのものに神がやどるという教えで、朝にはそれぞれの神様にお供えと祈りが捧げてありました。
 とても神聖で美しい場所でした。
昔の日本にもありましたね。
見えないものにも愛情を注いでいました。
ものが豊かになり、心が貧しくなってしまったのでしょうか。
 心も豊かでありたいと願わずにはいられません。
Posted by ぼらぼらぼらぼら  at 2009年05月13日 23:58
>ぼらぼらさん

私も信心深い方ではありませんが、路傍のお地蔵さまに花が供えられているのを見ると、何かほっとしますよね。

まだまだ大丈夫ですよ。
心豊かな人はいますから。
ぼらぼらさんだってその一人じゃないですか?
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年05月14日 07:36
いつも勉強させていただいてます。
飯玉様が保食神さまだったとは!
飯玉様…水澤寺の境内の階段登って行ったところにも可愛い祠がありますよね。
まだ若い椿が花を落としていて、すごく素敵だった記憶が…。
Posted by 乙春  at 2009年05月14日 10:26
>乙春さん

コメントありがとうございます!
嬉しかったです!

水澤寺、そうでしたかー!
何度も行ってて、ちっとも気がつきませんでした。
今度行く楽しみが増えました。
教えていただいて、ありがとうございました。
これからも、よろしくお付き合いください!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年05月15日 01:25
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