2009年05月01日

雁城(かりがねじょう)

「雁城(かりがねじょう)」という美しい呼び名を持っているお城が、むかし倉賀野にあった。

「井戸八幡」から200mほど西へ行ったところにある「雁(かりがね)児童公園」が、、「倉賀野城」別名「雁城」の本丸跡である。
大きな城址碑と、城の歴史を記した石碑がなければ、それとは分からぬほど小さな公園である。

他県にも「雁城」と呼ばれた城はあるようだが、その名の謂れについてはよく分からない。
ただ「倉賀野城」の場合は、城主・倉賀野氏の家紋が、「対い雁(むかい・かりがね)」だというので、たぶんそれが由来ではないかと思われる。

この家紋、ちょっと見ると蝙蝠(こうもり)のようだが、正解は鳥の雁(かり)が向かい合っている図柄である。

戦国時代の「倉賀野城」は、当初、上杉家に属していたが、後に宿敵の武田家に属することとなる。
その家紋が、「雁」という渡り鳥とは、少々皮肉な話である。

高崎市文化財調査委員で古城塁研究家の、山崎一氏が書き残してくれた「倉賀野城址」図がある。
昭和44年(1969)当時の道路と重ね合わせてあるので、どの辺りにあったのか見当がつく。


この図を見ると、「牛街道」「太鼓橋」下の道が、「倉賀野城」の堀の跡だということがよく分かる。
旧中山道も、今より一本北の道だったというから、やはり遠堀を埋めて道にしたのだろう。

倉賀野氏がここに館を構えたのは治承年間というから、平清盛源頼朝が戦っていた1177年~1184年だ。

「倉賀野河岸」の開設は永禄四年(1561)、川中島で上杉謙信武田信玄が戦っていた頃である。

そして落城したのが天正十八年(1590)、豊臣秀吉小田原城を包囲して降伏させた年である。
その時、小田原城には倉賀野城主・金井淡路守も籠城していたといい、落城後二十日ほどで死去したとある。
つまり、小田原城陥落と共に、「倉賀野城」も主を失ったという訳だ。
何ともはや、戦いの嵐に翻弄され続けた400年の歴史であった。


「倉賀野城址」の崖上から望む烏川は、世の移り変わりをどう見続けてきたのだろう。

少なくとも、戦のない平和な時代が来たことを、安堵の気持ちで見ているに違いない。

 この川が、
  再び血の色で染まることのないように、
    心から願ってやまない。


(参考図書:「高崎の散歩道 第2集」)

【倉賀野城址】


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Posted by 迷道院高崎 at 20:50
Comments(4)倉賀野
この記事へのコメント
そして、廃城になってから400年経ちましたか。
そろそろ復活の時ですかね・・・。
Posted by 弥乃助弥乃助  at 2009年05月01日 22:01
倉賀野は、本気になれば町ごとテーマパークにできますよ。
ビル・ゲイツくらいお金があればなー・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年05月01日 22:29
しかし、薩長薩摩のやつらはとんでもない連中です。
まあ、今のこの国の歴史というか、その中でも明治維新以降のそれはフザケテいますね。
長岡藩をあんな目にあわせたのも薩長薩摩です。

まあ、今の自民党はその末裔です(笑)。

やつらの天下のうちはどうにもならんでしょう・・・・・・
さてと・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年05月02日 08:20
>昭和24歳さん

心配なのは、目先の金に目が眩んでしまった国民ですね。

でも、そんな人は連休が終われば忘れてしまうでしょうが・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年05月02日 12:59
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