国道406号の下里見交差点から北へ320mほど行った所に、下里見町北村区公民館があります。
駐車場入り口に、大きな「庚申塔」が建っています。
その先にあるのが、「北村八幡宮」の石祠です。
この石祠の後ろに、「頼朝の腰掛け石」というのがあるようです。
あ~、これかぁ。
ふーん・・・。
ちょっと物足らない気分で道路に戻ると、反対側に旧道らしい斜めに入る道が見えます。
興味をそそられ、行ってみました。
少し行くと、四つ辻の角に隠れるように大きな石造物が建っています。
万延元年(1860)の「庚申尊」の塔でした。
そのまた陰に、小さな「馬頭観世音」の文字塔が2基隠れています。
道はこの先、鉤の手に曲がって新しい道路に出ますが、たぶん昔はこのまま烏川に出たんでしょう。
明治四十年(1907)の地図があります。
やはり鉤の手に曲がって烏川を渡っている道(赤く色を付けた道)があります。
昔は、下里見村と烏川対岸の久留馬村とを行き来する道は、大変不便だったようです。
下里見交差点の南に建っている碑に、現在の道路を整備するまでの経緯が刻まれています。
大正十五年(1926)地元村会議員5名の起案により、新しい道路と橋の工事が始まり、昭和四年(1929)に竣工したとあります。
工事費は県及び各村そして有志者の寄付で賄われ、地元住民百人余りの夫役もあったと刻まれています。
頼朝さんがこの辺を通った頃は橋もなかったでしょうから、やっとの思いで川を渡って、疲れ果てて道端の石に座り込んだんでしょうね、きっと・・・。
駐車場入り口に、大きな「庚申塔」が建っています。
その先にあるのが、「北村八幡宮」の石祠です。
この石祠の後ろに、「頼朝の腰掛け石」というのがあるようです。
あ~、これかぁ。
ふーん・・・。
ちょっと物足らない気分で道路に戻ると、反対側に旧道らしい斜めに入る道が見えます。
興味をそそられ、行ってみました。
少し行くと、四つ辻の角に隠れるように大きな石造物が建っています。
万延元年(1860)の「庚申尊」の塔でした。
そのまた陰に、小さな「馬頭観世音」の文字塔が2基隠れています。
道はこの先、鉤の手に曲がって新しい道路に出ますが、たぶん昔はこのまま烏川に出たんでしょう。
明治四十年(1907)の地図があります。
やはり鉤の手に曲がって烏川を渡っている道(赤く色を付けた道)があります。
昔は、下里見村と烏川対岸の久留馬村とを行き来する道は、大変不便だったようです。
下里見交差点の南に建っている碑に、現在の道路を整備するまでの経緯が刻まれています。
「 | 里見村大字下里見ヨリ烏川ヲ隔テ對岸久留馬村ニ通ズル里道ハ頗ル狭隘ニシテ 中川原橋ノ如キハ夏季年々流失ノ厄ニ遭ヒ 其ノ都度交通途絶シ 西ハ神山森下橋ニ 東ハ町屋或ハ遠ク君ヶ代橋ヲ迂回スル等 甚シキ不便ヲ被リ來リタルハ 最モ遺憾トスル所ナリキ」 |
大正十五年(1926)地元村会議員5名の起案により、新しい道路と橋の工事が始まり、昭和四年(1929)に竣工したとあります。
「 | 偶々村會議員富澤好太郎 中島良太郎 悴田隆平 富澤幸作 中曽根周作ノ五氏ハ深ク之ヲ慨シ 大正十五年二月相謀リテ 専ラ地方発展ノ目的ヲ以テ 縣道高崎間野線下里見ヲ起点トナシ 對岸久留馬村ニ通ズル道路橋梁ヲ完全ニ改築シ 一方板鼻町ニ通ズル町村道ヲモ修理ヲ加ヘ 重要路線トシテ將来縣道ニ編入セラルベキ計畫ヲ樹テ 之ヲ村會ニ諮リ全員ノ賛成ヲ得タルニヨリ 直ニ縣土木課竝ニ關係町村ニ向ヒ協賛ヲ仰ギ 只管事業ノ達成ニ努メラル |
幸ニ縣當局ノ認ムル所トナリ 村営工事トシテ執行スルコトニ決定シ 昭和二季十二月工ヲ起シ昭和四年三月竣工ヲ告グ(略)」 |
工事費は県及び各村そして有志者の寄付で賄われ、地元住民百人余りの夫役もあったと刻まれています。
「 | 道路橋梁設計総工費金二萬二千余圓及ビ用地三段三畝余歩ヲ用シ 其ノ内金六千四百圓縣費補助 久留馬村ヨリ金二千圓ノ寄附ヲ受ケ 里見村ヨリ金五千圓ヲ支出シ 其ノ他ハ地元近鄕關係有志者ノ寄附及ビ地元住民ノ夫役亦百餘人ノ寄附ニ依レリ(略) |
其ノ後本路線ハ所期ノ目的ヲ貫徹シ 碓氷群馬連絡樞要道路ト認メラレ板鼻室田線ト稱ヘ 昭和六年十二月縣道ニ編入セラル | |
扔テ茲ニ道路梁改築完成記念トシテ工事ノ概要ヲ勒シ寄附者芳名ハ碑蔭ニ刻ミ
永ク後世に傳ヘントス」 |
|
道路橋梁改築記念碑 | |
昭和八癸酉年□月 |
頼朝さんがこの辺を通った頃は橋もなかったでしょうから、やっとの思いで川を渡って、疲れ果てて道端の石に座り込んだんでしょうね、きっと・・・。
【頼朝の腰掛け石】
【板鼻室田線道路橋梁改築記念碑】