2020年09月20日

史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆

「上大島町公民館」の所が、むかし「安養寺」があったという場所です。
史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆

「安養寺」については、「里見村誌」にこう書いてあります。
明治二十三年の夏、落雷にて出火、全焼した。
その時本尊の阿弥陀如来の像一体と不動明王像一体とを辛うじて安泰ならしめたるも、他の寺宝等悉く焼失し、従って古記録等一切なく、世代、由緒等も尋ねるに由無い。
明治四十二年に、同宗の高崎市玉田寺へ合併、本尊阿弥陀如来及び不動明王像を同時に安置した。
檀家は上大島一円にて約五十軒あり、現在は本堂跡に間口五間に奥行き三間半、木造平屋一棟あり、上大島の公会堂となっている。
広い庭はそのままで庫裡の跡は耕地となっている。」

さらに、「参考雑記」として、
口碑によれば、焼失する前の建物は広大な本堂に、西側には不動堂があり、東側に庫裡があり、境内には考(高?老?)樹鬱蒼として荘厳の気に打たれる程の構えであって、古く新田氏の領地であった頃の建立といわれている。」
とあります。

そこに建っているのが、高崎市指定重要文化財「安養寺跡の笠塔婆」です。
史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆
史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆

看板に、笠塔婆の願主「沙弥西佛は安養寺ゆかりの在家信者と思われる」とありますが、これも諸説あるようで。
「榛名町誌 通史編下巻」には、こう書かれています。
新田義貞が少年の時、この沙弥に学んだといい、後に義貞は同寺を壮大に再建したという伝承がある。」

ところが、同じ「榛名町誌」でも「民俗編」では、新田義貞が師事したのは「沙弥西佛」とは書いてません。
往時、安養寺には名僧がおり、幼少の小五郎はその名僧に師事して学問、修養に励んだと伝えられている。」
後に新田義貞となる里見小五郎は、里見氏第六代里見城主里見大炊介義忠の第三子(一説に第五子)として里見郷に生まれ、新田宗家朝氏に嗣子がなかったため養子となり、新田小太郎義貞に改めたという言い伝えがある。

「里見村誌」では、こうです。
境内に現存する石仏に文永元年四月十九日の文字と、判然とは読めないが正面に「広宝妙録西仏」、右側に不動明王浮刻、左側に大日如来らしい刻がある。(略)
古く里見城のあった頃、里見小五郎(後の新田義貞)が、幼時この寺の博学の名僧に師事したとも伝えられている。」

ま、火災で記録がすべて焼失したというのですから、仕方ありませんね。

公民館の周囲には、古い石造物が残されたままになっています。
史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆
史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆

でも、最近建立されたものもいくつかあります。
史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆
史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆

地域の人には、まだ「安養寺」であるのでしょう。


【安養寺跡の笠塔婆】





同じカテゴリー(◆高崎探訪)の記事画像
史跡看板散歩-212 中里見の御嶽山
史跡看板散歩-211 中里見町光明寺の勝軍地蔵尊堂
史跡看板散歩-210 高浜の駒形神社
史跡看板散歩-209 下里見町の頼朝の腰掛け石
史跡看板散歩-208 下里見町仲通りの道祖神
史跡看板散歩-207 下里見中原の道標
同じカテゴリー(◆高崎探訪)の記事
 史跡看板散歩-212 中里見の御嶽山 (2020-10-18 07:17)
 史跡看板散歩-211 中里見町光明寺の勝軍地蔵尊堂 (2020-10-17 19:02)
 史跡看板散歩-210 高浜の駒形神社 (2020-10-16 17:02)
 史跡看板散歩-209 下里見町の頼朝の腰掛け石 (2020-10-11 07:27)
 史跡看板散歩-208 下里見町仲通りの道祖神 (2020-10-04 07:29)
 史跡看板散歩-207 下里見中原の道標 (2020-09-27 07:26)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
史跡看板散歩-206 上大島町安養寺跡の笠塔婆
    コメント(0)