2019年05月26日

史跡看板散歩-番外編 関叟庵

「関叟庵」(かんそうあん)、憶えてらっしゃるでしょうか。

4月14日の記事「瑾亭先生墓碣銘」で、保渡田村瑾亭先生こと安中文瑛が晩年に移り住んだという、箕輪村「関叟庵」です。

その「関叟庵」箕輪のどこにあったのか、記事をUPした後もずっと気になっていました。
箕郷図書館箕郷支所にも行ったんですが、分かりません。
町で出会ったお年寄りにも聞いてみたんですが、分かりません。
そこで、ふと思いついたのが宮川さんでした。

箕輪の町のとっつきにある、日本酒 岩戸川 醸造元という看板をご覧になってる方も多いでしょう。
史跡看板散歩-番外編 関叟庵
そこが、代々箕輪で造り酒屋をしていた宮川さんのお宅です。

初めて宮川さんのお宅を訪問したのが、2010年でした。
そのときに驚いたのが、ご当主・宮川雅次さんの無尽蔵の博識ぶりでした。
その後も何度かお邪魔しましたが、その都度、面白いお話が尽きることなく出てきます。
きっと、宮川さんなら「関叟庵」もご存じじゃないかと思って、久しぶりに訪ねてみました。

宮川さん、しばし記憶を紐解いてらっしゃったようですが・・・。
「うーん、下田の墓地の所に何か建ってたな。それが関叟庵かどうかは分からないが。」
と仰います。
さらに、「安中という家も、近くにあるよ。」と言うのです。

まずは、その安中さんを訪ねてみようと思って伺ったのですが、あいにくお留守でした。
ではということで、下田家の墓地を訪ねてみました。
下田家の墓地は、箕郷支所のすぐ東にあります。
史跡看板散歩-番外編 関叟庵

草の生えた細道を通って墓地に足を踏み入れるとすぐ、大きな宝篋印塔が建っています。
史跡看板散歩-番外編 関叟庵

その左に立っている石碑を見て、思わず「おーっ!」と声を上げそうになりました。
史跡看板散歩-番外編 関叟庵
なんと、「關叟林鐡居士」(関叟林鉄居士)と刻まれてるではないですか。

たぶん、下田家のどなたかの戒名あるいは雅号で、それを冠した庵が「関叟庵」だったのでしょう。
宮川さん、流石です!

となると、今度はどなたが建てたのかが気になってきます。
そこで、「箕輪町誌」をペラペラめくっていると、「人物編 下田連蔵」の項に下田本家の系譜が載っていました。
すると、なんと、三代目・忠炬重兵衛の注記にこう書いてあるではありませんか。
西明屋村田町の墓地に院寮を建て、関叟庵と号した。
酒造を初めたとも伝う。
享保九年四月十一日卒。七十九才。」

「関叟林鉄居士」碑は、下田忠炬重兵衛の墓石でした。
そして、「関叟庵」「院寮」として建てられたということです。

さらに「箕輪町誌人物編」を見ていくと安中文瑛の項もあり、そこに「関叟庵」のことも書かれていました。
明治五年(1768)医を廃業し、箕輪西明屋、関叟庵に隠居し(下田本家の墓地の隣り)悠々自適の生活を送り、吟咏などを楽しんで居られた。
この間にも、下田純一郎・竹腰徳蔵等は先生を慕われて、教を乞われたのであった。(安中球一郎の妹、八十七才健在の談)」

これを見ると、「関叟庵」下田家墓地の隣にあったありますが、宮川さんは墓地の中にあったと言っているので、少し食い違いがあります。

その安中球一郎についても記載がありました。
大阪の実業界で名をなした安中球一郎は、明治八年九月九日、熊谷県北第十六区壱小区西明屋一四六の貞三郎の長男として生まれた。
血の気は争えないもので、文瑛の孫である。幼少より聡明で温順、朋友の下田純一郎は、文瑛に近くの関叟庵で共に薫陶を受けた間柄、安中家に出入りする多くの人は、名士か文人で実に恵まれた雰囲気であった。
長じて十一屋にお手伝いとして入居し、先輩である徳蔵(先代)よりは、肉親にまさる寵愛を受け、身の廻り一切に至るまでお世話になり、氏もまた父とも兄とも慕う程であった(八七歳の妹の談)。」
そして竹腰徳蔵の応援もあって、球一郎は東京帝大法学部を卒業後、大阪に東亜鉄工所を建設し取締役社長を務めるまでになります。

こうなるとますます、箕郷に居るという安中さんを訪ねてみたくなり、5度目の訪問でようやくご主人とお会いすることができました。
お話を伺うと、やはり、この安中さんが文瑛のご子孫でした。

現当主・安中文雄さんのお父さんが瑛一氏で、瑛一氏のお母さんが前述の安中球一郎氏の妹・ウラさんです。
因みに、文雄さんの「文」と、瑛一氏の「瑛」は、文瑛の名前から一字づつもらっているそうです。

さて、「瑾亭先生墓碣銘」によると、安中文瑛「関叟庵」に隠居したのは、「老いて世事を厭(いと)い」ということでしたが、文雄さんはその経緯も「関叟庵」のことも知らないと言います。
ただ、父・瑛一氏から聞いている話しとして、文瑛の子・禎三郎が保渡田村長だった時、その部下が使い込みをした始末を全部することになり、保渡田の家屋敷を引き払って箕輪へ移ったということです。
その時、箕輪の酒造家・竹腰徳蔵の世話になり、「竹腰酒造」の道向こうに住まわせてもらったと言います。

ということは、「関叟庵」には文瑛だけが移り住んでいて、その後、貞三郎の家族が揃って「竹腰酒造」の所に移ってきたということなのかも知れません。

そう言われてみれば、「関叟庵」の間取り図を見ると、二世帯全員が住まうにはちょっと狭すぎる感じがします。
史跡看板散歩-番外編 関叟庵

斎藤勲氏著「みさと散策」には、「関叟庵」は大正の頃まであったらしいと書いてありますが、現八十二歳の宮川さんが見たことがあるということなので、少なくとも昭和十年代までは残っていたのではないでしょうか。

ともあれ、胸につかえていた「関叟庵」のことがようやく腑に落ちて、今夜はよく眠れそうです。


【下田家墓地】





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