浜川町の信号から箕郷方面へ約1km、北陸新幹線を潜る手前のセブン・イレブンの角を左に曲がります。
そして最初の四つ角を右に折れるとすぐ、「井出野ヶ原の玉清水」(行力町)があります。
史跡看板は、フェンスに隠れるように建っています。
在原業平(ありわらの・なりひら)が、「青木庄 井出野ヶ原の 玉清水」と言ったのが、「玉清水」という名の由来だというんですが、歌人の業平なら三十一文字で表しそうなものを、なぜか五・七・五です。
「青木」という地名は、平城(へいぜい)天皇の第一皇子・阿保(あぼ)親王に由来するそうです。
阿保親王は、承和元年(834)から四年(837)まで上野太守に任じられていましたが、任国巡遊の折にこの地で休憩したので、「阿保木」と称し、それが「青木」になったと言います。
その阿保親王の五男が在原業平ですから、親子で「玉清水」の由来にかかわっている訳ですね。
これが、現在の「玉清水」の池です。
だいぶ水草が繁茂していますが、鯉たちにとっては住み心地がよさそうです。
看板の最後に石塔のことが書かれていますが、横から見ると池の鯉を狙ってる鳥のようにも見えます。
ところで、平城天皇を祖とするのが、箕輪城主の長野業政(なりまさ)であると伝わっています。
そしてその長野業政のご子孫が、「玉清水」の近くに住んでらっしゃいます。
園芸店「ナリヒラガーデン」のオーナー・長野正弘さんです。
お店の中には、在原業平が祀られています。
質問してみました。
「お店の名前、ご先祖の中から業平(ナリヒラ)を選んだのは何故ですか?」
長野さんの答え。
「うちは園芸店として花を扱っていたんで、花の歌をたくさん詠んでいる業平にしたんだよ。」
あー、なるほど、合点がいきました。
そして最初の四つ角を右に折れるとすぐ、「井出野ヶ原の玉清水」(行力町)があります。
史跡看板は、フェンスに隠れるように建っています。
在原業平(ありわらの・なりひら)が、「青木庄 井出野ヶ原の 玉清水」と言ったのが、「玉清水」という名の由来だというんですが、歌人の業平なら三十一文字で表しそうなものを、なぜか五・七・五です。
「青木」という地名は、平城(へいぜい)天皇の第一皇子・阿保(あぼ)親王に由来するそうです。
阿保親王は、承和元年(834)から四年(837)まで上野太守に任じられていましたが、任国巡遊の折にこの地で休憩したので、「阿保木」と称し、それが「青木」になったと言います。
(長野村誌)
その阿保親王の五男が在原業平ですから、親子で「玉清水」の由来にかかわっている訳ですね。
これが、現在の「玉清水」の池です。
だいぶ水草が繁茂していますが、鯉たちにとっては住み心地がよさそうです。
看板の最後に石塔のことが書かれていますが、横から見ると池の鯉を狙ってる鳥のようにも見えます。
ところで、平城天皇を祖とするのが、箕輪城主の長野業政(なりまさ)であると伝わっています。
そしてその長野業政のご子孫が、「玉清水」の近くに住んでらっしゃいます。
園芸店「ナリヒラガーデン」のオーナー・長野正弘さんです。
お店の中には、在原業平が祀られています。
質問してみました。
「お店の名前、ご先祖の中から業平(ナリヒラ)を選んだのは何故ですか?」
長野さんの答え。
「うちは園芸店として花を扱っていたんで、花の歌をたくさん詠んでいる業平にしたんだよ。」
あー、なるほど、合点がいきました。
【玉清水】