「天竜護国寺」のすぐ西隣に、「日枝神社」があります。
本殿の裏から入った形ですが、右手の小高くなった所にお稲荷さんが祀られています。
このお稲荷さんこそ、前回の記事で書いた「稲荷山古墳」墳頂に祀られていたものです。
経緯を刻んだ石板が建っています。
「日枝神社」社殿の正面に回ると、史跡看板がありました。
創建当時に本社(比叡山麓の「日吉大社」)から移植した、槐(えんじゅ)、菩提樹、公孫樹(いちょう)のことが書いてあります。
「並榎三木」と呼ばれていたそうですが、現在は「槐」のみ残っているとあります。
この大樹がそうです。
「公孫樹」は、昭和三十二年(1957)の台風の時、落雷によって倒れてしまったそうですが、「高崎の散歩道第八集」にこんな話が載っています。
その在りし日の雄姿が、土屋喜英氏著「高崎漫歩」に残っていました。
無くなってしまって残念だなぁと思っていたら、実は、その切り株から子孫が幹を伸ばし始めているというのです。
「日枝神社」の隣にある、「榎保育園」の庭です。
そして、「並榎三木」のもうひとつ、「菩提樹」ですが。
残念なことに、そんな名木とは知らぬ土地所有者が邪魔になって伐り倒してしまったのだとか。
しかしその後、あらためて「日吉大社」から苗木を移植したそうで、これが今すくすくと育っています。
いつの日か、新しい「並榎三木」が大空に向かって聳え立つ日が来ることでしょう。
それまで、「槐」の古木には、まだまだ頑張ってもらわなければなりません。
本殿の裏から入った形ですが、右手の小高くなった所にお稲荷さんが祀られています。
このお稲荷さんこそ、前回の記事で書いた「稲荷山古墳」墳頂に祀られていたものです。
経緯を刻んだ石板が建っています。
「日枝神社」社殿の正面に回ると、史跡看板がありました。
創建当時に本社(比叡山麓の「日吉大社」)から移植した、槐(えんじゅ)、菩提樹、公孫樹(いちょう)のことが書いてあります。
「並榎三木」と呼ばれていたそうですが、現在は「槐」のみ残っているとあります。
この大樹がそうです。
「公孫樹」は、昭和三十二年(1957)の台風の時、落雷によって倒れてしまったそうですが、「高崎の散歩道第八集」にこんな話が載っています。
「 | 三木の一つ、銀杏は、『山王様の大いちょう』といわれて、高崎随一の古木・大木・名木であった。 |
創建当時から数えて千百年を経た、目通り十メートル余、高さ数十メートルの大木であった。 | |
根元から三メートルほどの所で幹が分岐し、そこに一メートル四方ほどの広場?ができていた。 | |
ここは子供達の遊び場となったり、時には学校帰りのツッパリ高校生が数人車座になって、一服するという憩いの場でもあった。」 |
その在りし日の雄姿が、土屋喜英氏著「高崎漫歩」に残っていました。
無くなってしまって残念だなぁと思っていたら、実は、その切り株から子孫が幹を伸ばし始めているというのです。
「日枝神社」の隣にある、「榎保育園」の庭です。
そして、「並榎三木」のもうひとつ、「菩提樹」ですが。
残念なことに、そんな名木とは知らぬ土地所有者が邪魔になって伐り倒してしまったのだとか。
しかしその後、あらためて「日吉大社」から苗木を移植したそうで、これが今すくすくと育っています。
いつの日か、新しい「並榎三木」が大空に向かって聳え立つ日が来ることでしょう。
それまで、「槐」の古木には、まだまだ頑張ってもらわなければなりません。
【日枝神社】
【槐】
【公孫樹】
【菩提樹】