2009年03月29日

虎三郎という人

「米百俵」の立役者、小林虎三郎

その生い立ちについては、あまり語られていない。
少しご紹介しようと思う。

虎三郎は、長岡藩士小林又兵衛の三男として、文政十一年(1828)に生まれた。

幼い頃、天然痘にかかり、左目の視力を失い、顔にはあばたが残ったという。

二人の兄は、子どもの頃に亡くなったため、虎三郎は家の跡取りとして育てられることとなる。
有能な役人であった父は、自ら虎三郎に学問を教え、「本を読んで、物事を知りなさい、考えなさい。」と諭したという。

虎三郎は22歳の時、佐久間象山に教えを乞うため、三国峠を越えて江戸へ向かった。
途中、高崎にも立ち寄ったはずである。

象山の塾で勉学に励んだ虎三郎は、認められて塾頭となる。
後に、入塾してくる吉田寅次郎(後の吉田松陰)とともに、「象山塾の二虎」と呼ばれる。

嘉永六年(1853)、浦賀に4隻の黒船を象山と見た虎三郎は、幕府の老中になっていた主君・牧野忠雅に「横浜開港」を進言する。
しかし、それが筆頭老中・阿部正弘「身分の低い一藩士が!」と怒りを買い、国元での幽閉を命じられることとなる。

そして慶応四年/明治元年(1868)、日本が旧幕府軍と新政府軍(官軍)とに分かれて戦う戊辰戦争が始まる。
長岡藩は、会津藩などの東北諸藩と「奥羽列藩同盟」を組み、官軍と戦うこととなった。

虎三郎自身は、「戦うことなく、みんなで新しい国をつくることが大切だ。」と説くも空しく、戦に敗れて長岡城は落城、城下は一面焼け野原となる。
加えて、長岡藩は新政府によって、7万4千石から2万4千石に減封されたため、極度に困窮し、士族の中にも三度の粥すらすすることのできない者がいた。

虎三郎が、入札(選挙)により大参事(家老職)になったのは、そんな時である。
長岡藩の支藩である三根山藩から、見舞いの「米百俵」が送られてきたのも、その時である。

送った三根山藩自身、決して余裕があった訳ではない。
三根山藩にも、壮絶な歴史の嵐は容赦なく吹き荒れていたのである。

「米百俵」の送り主、三根山藩についてのお話は、また次回ということに。

(参考:考古堂書店発行「ビジュアルふるさと風土記 米百俵の心」)



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