2018年04月15日

史跡看板散歩-88 高瀬屋跡

「小林本陣跡」から200mほど行くと、小林一茶が泊まったという旅籠「高瀬屋」があった場所です。



史跡看板の隣には、立派な石の説明板が建っています。


双方によって原文と解読文が読み比べられるので、なかなか面白いです。
裏面には、「建碑の記」というのが刻まれています。


それを見ると、「最近まで旅籠屋の姿を遺していた」とあります。
探してみると、平成元年(1989)発行の「新町町誌」に、かろうじてその姿が載っていました。


一茶「七番日記」というのは文化七年(1810)~十五年(文政元年/1818)に書かれた日記で、その中に、父の墓参のために江戸から故郷の信州柏原へ行く途中の、「高瀬屋」でのエピソードが記されています。

一茶江戸を発ったのは文化七年五月十日、一茶、四十八歳の時です。
新暦では六月なので、梅雨時の天気を見ながら延ばし延ばしの出立だったようですが、結果は「災いの日を選りたるよう也」と嘆いています。
出立したその日に上尾でさっそく雨にあい、合羽を買ってさらに歩いて鴻巣宿で一泊します。

江戸日本橋から鴻巣宿まで12里8町6間(約48.0km)ということですから、かなり頑張って歩いたんですね。
翌十一日も雨で、その中を鴻巣宿から新町宿まで11里22町34間(約45.7km)の距離を歩いています。
本当は、倉賀野宿くらいまで行きたかったんですかね。

それほど頑張って歩いてきたのに、雨で川留めにあい、「道急ぐ心も折れて」と言っています。
そのうえ、「雨の疲れにすやすや寝て」いたら、「夜五更(よるごこう)のころ」にいきなり起こされて寄附をせがまれたというんですから、さぞかし、むっとしたことでしょう。

史跡看板では「夜五更」「午前四時」と言っています。
そんな真夜中にと思っちゃいますが、少し解説が必要だと思いますので、ちょっと理屈っぽい話になりますがお付き合いください。

江戸時代の人は、暗くなれば「夜」、明るくなれば「朝」という暮らしでそれほど不便はなかったのでしょうが、宿場ではそうもいきません。
木戸の開け閉めや、夜番の見回りがあるので、その時刻をはっきりしておく必要があります。

そこで、夜を「暮れ六つ」の鐘で、朝を「明け六つ」の鐘で知らせていました。
そして、その「夜間」を5等分して「更」とし、「更」ごとに夜番が交替して拍子木を打ちながら夜回りしていた訳です。
「交替」という字を替」とも書き、「夜がふける」「夜がける」と書くのも、この「更」からきているのでしょう。

ということで、「更」というのは、何時から何時までというをもっている訳です。
しかも季節によって「夜」の長さは変わりますから、5等分した長さも時刻も季節によって変わりますので、「夜五更」を一概に「午前四時」とは言えないのです。


では、一茶「高瀬屋」に泊まった時の「夜五更」は何時から何時なのでしょう。
一茶が泊まった旧暦の5月11日は、新暦では6月初旬から中旬、この頃の日の入りは午後7時、日の出は午前4時半ぐらいです。(国立天文台「前橋の日の出入り」より)

ただ、「暮れ六つ」の鐘は日の入りから30分後くらい、「明け六つ」の鐘は日の出の30分前くらいに撞くといわれています。

ですので一茶「高瀬屋」に泊まった時は、「暮れ六つ」が午後7時半、「明け六つ」が午前4時ということになります。
この間を5等分すると、5番目の更、「五更」は、「午前2時18分~4時」となります。

さて、一茶は、その間の何時ころ起こされたんでしょうか?

ここからは迷道院の推測ですが、一茶「明け六つ」の鐘を聞いてないんじゃないかと思うんです。
聞いていれば、「五更のころ」なんて言わずに、「明け六つ前」とか「明け六つの頃」とか言ってるでしょうから。

じゃ、「明け六つ」前に押し掛けてきたんでしょうか。
それはいくら何でも、それはいくら何でも、ご容赦下さいです。

おそらくですが、「明け六つ」の鐘が鳴るのを待って、ただし宿を早立ちされる前に、やって来たんだと思うんです。

きっと一茶は、「明け六つ」の鐘が鳴ったのも気付かぬほど疲れて眠っていたんだと思うんですが、みなさんどう思います?

ところで、一茶を起こしに来た連中は、なぜ「専福寺」の提灯を持っていたのでしょう。

そのお話は、次回ということに。


【高瀬屋跡】






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この記事へのコメント
時間に関するご推測、なかなか面白いと思います。
また、寄附をお願いされて、渋々12文寄進したというのも悲哀を感じさせられます。
一茶は俳諧師として多少名が売れてからも生活は厳しく、弟子たちの家を訪ね歩き、一宿一飯の世話になったり、路銀を無心するなど、かなり貧乏だったそうですから。
Posted by 風子風子  at 2018年04月15日 10:24
>風子さん

一茶も大変だったんですね。
新町宿にも俳諧師は沢山いたらしいですけど、交流はなかったんですかね。
お気の毒です。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2018年04月15日 18:15
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