2017年10月22日

不幸だった道標 「國道九號線」

先日、「幸福の道標 左道通行」の記事を書きましたが、実はその真逆の「不幸な道標」があります。

不幸だった道標 「國道九號線」飯塚町の一貫堀に架かる「清水橋」の親柱、そしてそれは、高崎の歴史を語る「國道九號線」の道標でもありました。

8年前の記事をご覧ください。
   ◇高崎に国道9号線?

この親柱、つい最近まであって、ストリートビューにも残っているんですが・・・。
不幸だった道標 「國道九號線」

いつの間にか、なくなっちゃいました・・・。
不幸だった道標 「國道九號線」

どうも、昨年から今年にかけての橋改修工事で、撤去されてしまったようです。

高崎土木事務所へ電話して、親柱はどうなったのか問い合わせたところ、「区長さんからの要請もあって、塚沢公民館に保管されている。ただ、撤去時に破損したものは廃棄した。」ということでした。

早速、塚沢公民館へ行ってみました。
主事さんのご案内で保管してあるという場所へ行ってみると、外階段の下に置いてはあったのですが・・・。
不幸だった道標 「國道九號線」

肝心の「國道九號線」と刻まれた親柱は、廃棄されてしまったようです。

もしも土木事務所の担当者が、あるいは工事業者が、「これは何か大切なものじゃないか。」と思ってくれていたら、破損しないように注意しながら作業してくれたんじゃないでしょうか。
例え破損してしまったとしても、つぎはぎして復元してくれたんじゃないでしょうか。

そういう人のご縁を得た「左道通行」の道標に比べ、ご縁を得られなかった「國道九號線」の道標は誠に不幸でありました。

8月の上毛新聞「ひろば」欄に、こんな投稿がありました。
不幸だった道標 「國道九號線」

羨ましい話です。

ただでさえ少なくなってしまった高崎の歴史を、これ以上捨ててしまうことがないようにしたいものです。
高崎の行政に携わるあらゆる人達に、そしてこれからの高崎に生きていく子どもたちに、高崎の歴史を伝えていく必要性を、強く、強く思う日々であります。


【清水橋】






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Posted by 迷道院高崎 at 07:31
Comments(8)◆高崎探訪◆高崎雑感
この記事へのコメント
はじまして。私、高崎生まれ、高崎育ちで現在名古屋在住の隠居の思ひつ記ブログファンのものです。
毎週日曜日のブログ更新を楽しみにしているともに高崎の歴史について勉強させていただいております。

先日高崎に帰省した際、私も清水橋の國道九號線の道標が改修のため、撤去されていることがわかりショックを受けました。
やりようによっては守ることができた案件だけに非常に残念です…

高崎の歴史を垣間見ることができるモニュメントがまた一つなくなってしまいました…
Posted by 尾張人  at 2017年10月22日 08:36
>尾張人さん

コメントありがとうございます。
いつも「隠居の思ひつ記」をご覧頂いてるとのこと、とても嬉しいです。

清水橋の「國道九號線」をご存知ということで、ご実家がお近くなのでしょうか。
あの道標は、本当に残念でした。
私も、もっと早く気付いていればと悔いが残ります。

今後とも「隠居の思ひつ記」、よろしくお付き合いください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年10月22日 18:08
國道九號線とは、関係有りませんが

偶然かも知れませんが、矢島保治郎は伊勢崎市本関町に生まれで、前橋中学校へ進んだが型にはまった生き方は好まず退学し、自由に世界を駆け巡るのを夢見る人であった。
日露戦争に従軍し勲章をもらって帰国した後、
河口慧海の「チベット旅行記」に刺激され、日本力行会という会に所属し、無銭旅行をしながらの冒険を企てチベットに入国した方ですが、
晩年は失意のうちに昭和38年に前橋市の自宅で亡くなった方です。
Posted by wasada49  at 2017年10月24日 00:06
こんにちは。
この橋の少し上流にとさつ場と高崎ハムがありました。小学生の頃あのあたりが遊び場だったので懐かしい橋でした。無くなってしまいましたか・・残念です。
牛のとさつを一度だけ見たことがあります。子ども心にショックでした。また豚は派手に騒ぐのですぐにわかります。とさつ場の下流は流された血で川底が赤く染まっていました。上流ではナマズやウナギを取りましたが下流へは絶対に踏み込みませんでした。勿論護岸は石積み。今の福祉総合センターの裏です。先日用事があり行ってきました。暫く一貫堀川の川面を見ながら昔の光景を思い出しました。まだ市立幼稚園の前の道は信越線を横切る踏切で北側と行き来できた時代です。道の角が岡田刀水土氏の家でした。氏の娘さんは小学校の同級生です。昭和天皇のお召列車を引くSLが先頭に付けた日の丸の旗をなびかせながら目の前を通り過ぎました。祖母と一緒に手を振りました。最初で最後の天皇の実像でした。
Posted by toboketaG  at 2017年10月24日 17:26
>wasada49さん

矢島保治郎のお話、教えて頂いてありがとうございます。
すごい人だったんですね。
「失意のうちに亡くなった」というのが、気にかかりますが。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年10月24日 20:02
>toboketaGさん

いきいきとした思い出話、ありがとうございました。

岡田刀水土氏は、私の母校・中央小学校の校歌を作詞した方ですね。
お名前しか存じ上げませんが。

それにつけても、「國道九號線」は惜しいことでした。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年10月24日 20:10
>迷道院高崎さま

こちらこそお返事ありがとうございました。
私の実家はこの近くの塚沢中学の学区です。

塚沢中校歌も岡田刀水士氏の作詞です。
この近くにお住まいだったとのことなのでそのご縁で作詞をしていただいたのでしょうか。

ちなみに詩人萩原朔太郎氏のお弟子さんです。
Posted by 尾張人  at 2017年10月28日 18:19
>尾張人さん

ほー、初めて知りました。

教えて頂いて、ありがとうございます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年10月28日 20:56
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