東町(あずまちょう)の、「高崎五万石騒動義人堂」です。
「高崎五万石騒動」は、語れば長い物語なんですが、この文字数でよく核心を突いている説明文だと思います。
この騒動はよく百姓一揆と捉えられたりもしますが、武器を持って豪農・商家を襲うような類とは全く違い、公平な税制を求めた整然たる市民運動でありました。
初期の明治政府における混乱が生んだ悲劇だと言っても良いでしょう。
犠牲者の慰霊・顕彰のために建立された「義人堂」は、水原徳言氏のユニークな設計です。
碑文は、田島武夫氏と萩原進氏の撰です。
五万石騒動の大総代三人が斬首されたここは、「無縁堂」と呼ばれていました。
川野辺寛著「高崎志」(寛政元年)にこう書かれています。
森の中にある荼毘(だび)所で、萱葺の堂宇と庫裡、鐘楼もあったようです。
初めは羅漢町にあったが、町家に近いのでここに移ったということですね。
「無縁堂」は、明治以降も引き続き高崎市の火葬場として利用されました。
しかし、かつては一面の田んぼだった「無縁堂」周辺も、次第に人家が密集してきます。
寺尾地区から永福寺境内山上への火葬場誘致の陳情があったこともあり、昭和九年(1934)同地に新しい火葬場が完成して、「無縁堂」はその役目を終えます。
「義人堂」の天井部に組まれている梁は、もしかすると「無縁堂」の遺材なのかも知れません。
「義人堂」の周りには、今も「無縁堂」の遺物と思われるものが転がっています。
その中には、火葬後の灰を埋めた場所に建てたらしい「灰塚石」も見られます。
そして、幕末動乱期の慶応元年(1865)に「無縁堂」の露と消えた、水戸浪士・猿田忠夫主従の墓もあります。
水戸天狗党の軍資金調達を目的に、上州各地の富豪を勧誘・強要して回り、板鼻から高崎に来る途中で捕縛され斬首された、主従六人の慰霊碑です。
ここ「無縁堂」跡地は、高崎の忘れてはならない史跡の一つです。
「高崎五万石騒動」は、語れば長い物語なんですが、この文字数でよく核心を突いている説明文だと思います。
この騒動はよく百姓一揆と捉えられたりもしますが、武器を持って豪農・商家を襲うような類とは全く違い、公平な税制を求めた整然たる市民運動でありました。
初期の明治政府における混乱が生んだ悲劇だと言っても良いでしょう。
犠牲者の慰霊・顕彰のために建立された「義人堂」は、水原徳言氏のユニークな設計です。
碑文は、田島武夫氏と萩原進氏の撰です。
五万石騒動の大総代三人が斬首されたここは、「無縁堂」と呼ばれていました。
川野辺寛著「高崎志」(寛政元年)にこう書かれています。
「 | 無縁堂ハ羅漢町ノ東八町バカリニアリ、是モ赤坂ノ内也、四面反畝ニシテ、森ノ中ニアリ、高崎ノ荼毘所也、 |
開基未詳、慶長ノ頃ヨリ、新紺屋町金剛寺ノ持也ト云、初ハ羅漢町ノ東矢島ト云所ニアリ、故ニ矢島山ト号ス、 | |
其地町家ニ接近ナルヲ以テ、安藤氏ノ長臣安藤丹下、請テ今ノ地ニ移スト云、未詳、旧地今ニ存セリ、 | |
堂五間、四面、西向、萱葺也、本尊阿弥陀、又閻魔ノ木像アリ。 | |
庫裡 五間ニ一一間、萱葺也。 | |
鐘楼 二間四方。」 |
森の中にある荼毘(だび)所で、萱葺の堂宇と庫裡、鐘楼もあったようです。
初めは羅漢町にあったが、町家に近いのでここに移ったということですね。
「無縁堂」は、明治以降も引き続き高崎市の火葬場として利用されました。
しかし、かつては一面の田んぼだった「無縁堂」周辺も、次第に人家が密集してきます。
寺尾地区から永福寺境内山上への火葬場誘致の陳情があったこともあり、昭和九年(1934)同地に新しい火葬場が完成して、「無縁堂」はその役目を終えます。
「義人堂」の天井部に組まれている梁は、もしかすると「無縁堂」の遺材なのかも知れません。
「義人堂」の周りには、今も「無縁堂」の遺物と思われるものが転がっています。
その中には、火葬後の灰を埋めた場所に建てたらしい「灰塚石」も見られます。
そして、幕末動乱期の慶応元年(1865)に「無縁堂」の露と消えた、水戸浪士・猿田忠夫主従の墓もあります。
水戸天狗党の軍資金調達を目的に、上州各地の富豪を勧誘・強要して回り、板鼻から高崎に来る途中で捕縛され斬首された、主従六人の慰霊碑です。
ここ「無縁堂」跡地は、高崎の忘れてはならない史跡の一つです。
【高崎五万石騒動義人堂】