2017年02月05日

史跡看板散歩-30 一里塚跡(倉賀野)

九蔵町「一里塚跡」の看板に「佐野粕沢の一里塚」とある、ここの一里塚跡にも史跡看板が建ちました。

史跡看板散歩-30 一里塚跡(倉賀野)
史跡看板散歩-30 一里塚跡(倉賀野)

でも看板が建っている場所は、「佐野粕沢」ではありません。


この辺にあったされる一里塚は、「倉賀野の一里塚」とか、「正六の一里塚」とか、「粕沢の一里塚」とかいろんな呼び方をされます。
ここも九蔵町同様、一里塚の痕跡はまったく残っておらず、場所が特定しにくいのでしょう。
そのせいか、この史跡看板でも「中山道の一里塚」という、だいぶ腰の引けた表現になっています。

九蔵町のと違うところは、一里塚を描いた絵図があることです。
看板に載せている絵図は、「高崎宿・倉賀野宿往還通絵図面」の一部で、南が上になっています。
史跡看板散歩-30 一里塚跡(倉賀野)

北を上にして、倉賀野宿西端まで範囲を広げて見てみましょう。
史跡看板散歩-30 一里塚跡(倉賀野)

こうすると、安楽寺から一里塚まではだいぶ距離があるように描かれていて、下正六の集落よりもさらに高崎寄りに描かれています。
これはたしかに、「粕沢の一里塚」と呼びたくなります。

しかし、「中山道分間延絵図」というのを見ると、一里塚は下正六の集落よりも倉賀野宿寄りに描かれていて、これなら「正六の一里塚」とか「倉賀野の一里塚」と呼びたくなります。
史跡看板散歩-30 一里塚跡(倉賀野)

さあ、どちらの絵図がより正しい位置を示しているのでしょう。
そこで、明治十四年(1881)に土屋補三郎(老平)が書いた「倉賀野誌」の記述を見てみましょう。
一里塚
本駅(倉賀野)南方、字薬師前、荒畑壱畝廿九歩、北方、字稲荷前、荒畑廿三歩、松並木ノ左右ニ立リ、
高一丈五尺(4.55m)、塚上ニモミノ木植リ、明治三、四年頃ヨリ、追々毀チ、平地田成。」

「粕沢」でも「正六」でもなく、「南側は字薬師前、北側は字稲荷前」にあったと書かれています。
史跡看板散歩-30 一里塚跡(倉賀野)


どうやら「中山道分間延絵図」の方が正しそうなので、明治十三年(1880)~十九年(1886)頃の地図と付き合わせて、場所の見当を付けてみましょう。
目安にしたのは、「林西寺と下正六の間で、野道と水路の似てるとこ」です。
史跡看板散歩-30 一里塚跡(倉賀野)

さらに、それを現在の地図に置き換えてみると、おそらくこの辺かと思われます。
史跡看板散歩-30 一里塚跡(倉賀野)

ちょうど、今史跡看板が建っている辺りになりそうです。
史跡看板は、「高崎宿・倉賀野宿往還通絵図面」を掲載しつつも、建てた場所は「中山道分間延絵図」の方を採用したようです。

ということで、この一里塚は「倉賀野の一里塚」と呼ぶことにしてはいかがでしょうか。
いずれにしても、高崎にあった三つの一里塚全ての場所に看板が建ったということは、喜ばしいことであります。





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この記事へのコメント
いつも貴重な情報をありがとうございます。
PCが不調でしたので、やっと前回から拝見できました。
だいぶ前に西上正六に居住していましたが、一里塚は知りませんでした。倉賀野寄りだったのですね。かつての松並木の巨木が懐かしいです。
さて正六と佐野の境にあるドラッグストアのあたりに、街道筋の休憩場所「お茶屋」があったそうですね、江戸時代から営んでいた所有者の花岡さんから伺いました。そのお宅に当時の絵図面や街道絵図が有ったことを思い出しました。

次回もよろしくお願いいたします。
Posted by 清水一也  at 2017年02月05日 11:02
>清水一也さん

上正六にお住まいだったんですか。
昔、両親の知り合いが正六で「ホルモン大学」というのをやっていて、時々食べに行ってました。

花岡さんともお知り合いなんですね。
粕沢の立場茶屋は、本町在住の文化人・花岡義旭という人が主だったと聞いています。
8年前に記事にしていました。
http://inkyo.gunmablog.net/e48165.html

いつも貴重な情報、ありがとうございます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2017年02月05日 11:48
かなり遅くのコメントで失礼します。
倉賀野の一里塚の表記は正しくないと思います。
確かに26里には違いないのですが、この一里塚は24番目の一里塚です。詳細は長くなるので割愛しますが、分間延絵図に描かれていない「戸田(No.4)」「大宮(No.7)」「馬室原(No.11)」「深谷(No.18)」「立石(No.23)」を含めても24番目となります。これらは、旧道上だったり水害等で流失したと考えられる一里塚です。
Posted by 中山道マニア  at 2020年05月07日 02:50
>中山道マニアさん

ご教示ありがとうございます。
倉賀野の一里塚は、26里目なのに24番目ということですか。
それは一里塚と言っても一里ごとに塚を築いた訳ではないということなのでしょうか。
それとも、中山道の道筋が変わったなどの理由で一里塚としてカウントしなくなったということなのでしょうか。
その点についても、ご教示頂けたらありがたいです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2020年05月07日 10:43
寛政12年(1800年)編纂の中山道分間延絵図では、日本橋から倉賀野までの一里塚は19ヶ所しか描かれていません。そして、倉賀野までの距離は約104kmで26里となります。一里塚と言うからにはこの間に26ヶ所あるんじゃないの?7ヶ所が描かれてないの?と思いますよね。でも、違うんですよ。一里塚と言っても、どうやらきっちりと一里ごとに築いた訳ではないようなのです。
例えば、比較的旧道が良く残り一里塚の場所も(消滅はしているが)ほぼ確定している上尾〜桶川の一里塚間は実測で4.7kmあります。また、1里目の一里塚は本郷追分で確定しており、2里目は場所が確定していないものの平尾(板橋駅付近)辺り、その次が現存している志村の一里塚。この本郷から志村までは実測で9kmあります。他も、大部分の一里塚間の距離は4kmを超えているので、徐々にずれていって、里程と一里塚の数が合わなくなるのです(塵も積もれば何とやら、です)。

下記に、倉賀野までの一里塚を記します。
詳細を記さず地名のみ表記しているのは、分間延絵図に描かれている一里塚です。詳細を記した一里塚は、分間延絵図に描かれていないものの、前後の一里塚との距離から見て存在したであろうと思われる一里塚です。

1番目「本郷」
2番目「平尾」
3番目「志村」=現存

4番目「戸田の一里塚」
前塚は現存の志村一里塚で、この先は辻の一里塚(史跡標柱あり)。辻の一里塚は、分間延絵図と現道を比較しても、史跡標柱の場所でほぼ合っています。志村〜辻までの距離は実測で8kmを超えていますので、分間延絵図には描かれていないものの、荒川の埼玉県側に一里塚があったと推測されます。この一里塚はおそらく荒川の水害で流失したか、推定位置が江戸時代の堤の位置とほぼ重なるので、築堤時に崩されたと考えられます。

5番目「辻」
6番目「浦和」

7番目「大宮の一里塚」
前塚の浦和一里塚、次塚の加茂宮一里塚共に位置は推測になるが、その距離はおおよそ8.5kmとなります。大宮の一里塚の場合、初期の中山道が大宮氷川神社参道を通っていたことが数々の資料から明らかです。大宮宿も初めは参道沿いにあったのですが、寛永5年(1628年)に現在の旧中山道を開通させて移転したのです。そのため、この一里塚は旧道である参道の方に取り残され、現在の旧中山道沿いには新たに一里塚を築かなかったと考えられます。

8番目「加茂宮」
9番目「上尾」
10番目「桶川」

11番目「馬室原の一里塚」
前塚が桶川一里塚で、次塚が箕田一里塚です。桶川の方は史跡案内があり、箕田の方は分間延絵図と現道を比較すると、推測ながら場所はほぼ確定できます。馬室原一里塚は、旧中山道沿いではなく、初期の中山道沿いにあり、片側の塚が現存しています。ここも大宮と同じく古い中山道に取り残されて、付け替えた現在知られる旧中山道には新たに築かなかったと考えられます。ちなみに、この一里塚で日本橋からほぼ12里なのですが、推定一里塚も含めて11番目になります。

12番目「箕田」
13番目「前砂」
14番目「久下」
15番目「八丁」
16番目「新島」
17番目「東方」

18番目「深谷の一里塚」
前塚が東方一里塚で、次塚が岡下一里塚です。東方一里塚には史跡標柱があります。岡下一里塚の位置は、分間延絵図と現道の比較から場所をほぼ確定できます。前後の一里塚間の距離は実測で約9kmあります。この中間辺りに一里塚があったと考えられ、その推定位置は深谷宿のほぼ真ん中です。この一里塚がなぜ分間延絵図に描かれていないのか不明で、各種資料にも存在の有無すら記述がありません。唯一、深谷市史に「八百屋彦七右屋敷に近年まで一里塚の跡ありと申伝ふ」の記述が見えます。さらに、同市史には「慶安年中往還振替候に付云々」とも記されています。「慶安年中往還振替」が「慶安年中に中山道を付け替えた」という意味なら、これも付け替え前の旧道に取り残されたと考えられます。これは私の勝手な推測なのですが、深谷城の廃城は寛永11年(1634年)のことで、慶安年中は1648〜1652年なので、深谷城廃城後に城下町を再編して中山道を付け替えたのではないかと思っています。もう一つ考えられるのは、深谷一里塚の場合、推定位置が宿場のど真ん中に当たるため、最初から一里塚を作らなかった(同条件の高崎、軽井沢、上松などは一里塚が築かれた)、もしくは宿場町中ということもあって、家屋が増えて行く過程で一里塚が崩された(家の中に取り込まれた)とも考えられます。

19番目「岡下」※日本橋から83km、21里
20番目「傍示堂」
21番目「万年寺」
22番目「勝場」

23番目「立石の一里塚」
前塚は勝場一里塚、次塚は倉賀野一里塚です。この前後一里塚間は9km以上あり、やはり一里塚があったと想定されます。存在したとすれば、立石新田の烏川沿いであろうと思われます。この一里塚がなぜ分間延絵図に描かれていないのか不明ですが、個人的には2つの理由が考えられます。1つは、「初期中山道に取り残された」。初期中山道が、神流川右岸の金久保から藤木の渡しで角渕へ渡り、玉村を経て倉賀野に通じていたことはご存知かと思います。烏川右岸ルート、つまり新町経由ルートが中山道となったのは承応3年(1654年)と記録にあり、新町宿の成立は享保9年(1724年)になります。玉村経由ルートの距離は勝場〜倉賀野一里塚間で約16km。ちょうど3つの一里塚分と同じです。ただし、この説の問題点は「勝場一里塚は新町経由ルート上にある」ということです。ですので、最も有力な可能性は「立石一里塚は烏川の氾濫によって流失し、新たには築かなかった」というものです。勝場一里塚が1654年以降に開通した新町経由の新しいルートに築かれたのであれば、立石一里塚も同じく同時期に築いているはずです。それなのに分間延絵図に描かれていないのは、いずれかの時期に失われてしまった....とすれば、その消失の原因は烏川の氾濫以外にはないと思っています。烏川氾濫の記録は枚挙にいとまがありません。

24番目「倉賀野」※日本橋から104km、26里

分間延絵図に描かれている一里塚19ヶ所と、描かれていないが存在したであろうと推測される一里塚5ヶ所の詳細は以上です。
日本橋からの距離で考えた場合、「11番目:馬室原の一里塚」で約47km=約12里、「19番目:岡下の一里塚」で約83km=約21里、となり、里程と塚数にズレが生じています。分間延絵図に記載のない一里塚の場合、その前後の距離からしておおよそ一里塚1基分ですので、倉賀野が24番目というのはほぼ間違いがありません。

倉賀野一里塚の史跡案内板が何を元に「26番目」としているのかは定かではありませんが、中山道分間延絵図を元にするのであれば、「26里24番目(又は19番目)の一里塚」が正しい表記になります。まぁ、それはそれで、「26里で24番目って、どういうこと?」と見る人を混乱させるでしょうね。「江戸時代初期の測量なんてかなりいい加減なもん。伊能は有能」「距離と塚の数が合わなくなったけど、そんな細かい事を気にしないのが江戸っ子」的な説明文も必要かと。
Posted by 中山道マニア  at 2020年05月08日 01:10
一つ訂正させていただきます。
23番目「立石の一里塚」の詳細説明で、「玉村経由ルートの距離は勝場〜倉賀野一里塚間で約16km」と書き込みましたが、正しくは「万年寺〜倉賀野一里塚間で約16km」です。
初期中山道は勝場一里塚の手前、金久保村の陽雲寺付近で北側へ外れて藤木の渡しへ向かっていました。ですので、その先の勝場一里塚前は通っていなかったはずなのです。
Posted by 中山道マニア  at 2020年05月08日 01:30
>中山道マニアさん

詳細なご説明、ありがとうございました。
一里塚と言ってもピッタリ一里毎に築かれた訳ではなく、立地条件の都合もあったということなのですね。
倉賀野の一里塚の説明文としては、「26里目の一里塚」と表現するのが良さそうですね。

大変勉強になりました。
ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2020年05月08日 17:00
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