ご無沙汰しておりました、ひと月ぶりの投稿です。
興禅寺から観音道路を西へ進み、龍広寺の手前で斜め左に入るとすぐ、左側に「小万地蔵尊」があります。
看板にある通りこの地蔵堂は、「小万」という女性がここで亡くなったのでその霊を弔うために建てられたと伝わっています。
この「小万」さんとはどんな女性なのか、看板にも二通りの説が書かれているように、よく分かっていません。
地蔵堂脇に建てられた石碑には、回国者夫婦の妻となっており、今現在では、こちらが定説となっているようです。
ただ、分からないことも多くて、そもそも「小万」は、「こまん」なのか「おまん」なのか。
女性だから「おまん」さんだろうという気もしますが、三重県の亀山市に伝わる昔話には「小万(こまん)」さんという女性が出てきます。
高崎の歴史本にも明確に仮名を振ってあるものはありません。
明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」に付いている「和田古城之図」でも、「小まん坂」と逃げています。
もうひとつは、たまたま行き倒れた旅人のために、地蔵堂まで建てて供養するだろうかという疑問です。
「小万」さんが余程の別嬪さんだったのか、あるいは病んで長逗留する間に村人に慕われるようにでもなったのか。
よしんばそうだったとしても、せいぜい塚に墓石か、路傍の石地蔵がいいところで、堂宇まで建てるとは。
それに、女性を供養するなら観音様にでもしそうなものを、お地蔵様とは・・・。
で、ここからは、いつもながら迷道院の根拠なき推論です。
そのつもりでお読み頂きたい。
昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に、「和田宿古繪圖」というのが添付されています。
「髙嵜繁昌記」の「和田古城之図」とほとんど同じなのですが、これには「小万坂」という記載はなく、「此邊大おん久保ト云」(この辺 大おん窪と云う)とか、「此辺ニ大音寺ト云フ寺有 之今ハ名斗帳面ニ有」(この辺に大音寺と云う寺有り これ今は名ばかり帳面に有り)と書かれています。
大正十三年(1924)の「髙崎市全圖」では、「大音寺通」と表記されており、道は烏川の縁で止まっています。
「鎌倉小路三号」というのが「小万坂」です。
どうやらこの付近には、いつの頃か「大音寺」というお寺があったようです。
思うに、「小万地蔵堂」はそのお寺の地蔵堂ではなかったかと。
Wikipediaによると、
とあります。
折しも今月15日は「七五三」ですが、三歳・五歳・七歳は子どもの厄年なんだそうで、その厄を落とす儀式なんだとか。
また、七歳までは神様からお預かりした子で、いつ神様にお返しすることになるかも分からない、七歳を無事に越すことができて初めて人間の子となるのだ、とも聞いたことがあります。
それほどに、昔は、小さな子どもが育たずに亡くなってしまったということなのでしょう。
流産などによる水子も今より多かったことでしょうし、場合によっては間引きなどにあう不憫な嬰児もあったことでしょう。
そのような不幸な子どもの亡骸が、この坂道を下って「大音寺」に葬られたのではないでしょうか。
もしかすると、ひっそりと烏川に流された亡骸だってあるかも知れません。
してみると、「小万」の「小」は「こども」の「小」、「万」は「数多くの」あるいは「すべての」という意味と考えられないでしょうか。
「小万地蔵」は、「数多くの小さな御霊」を供養し、「数多くの子どもたち」の無事生育を願うお地蔵様だったのではないか、と私は思うのですが、いかがでしょうか。
そう考えて、私は「こまんじぞう」「こまんざか」と呼ぶことにしたいと思います。
「隠居の思ひつ記」は、またしばらくお休みさせて頂きます。
興禅寺から観音道路を西へ進み、龍広寺の手前で斜め左に入るとすぐ、左側に「小万地蔵尊」があります。
看板にある通りこの地蔵堂は、「小万」という女性がここで亡くなったのでその霊を弔うために建てられたと伝わっています。
この「小万」さんとはどんな女性なのか、看板にも二通りの説が書かれているように、よく分かっていません。
地蔵堂脇に建てられた石碑には、回国者夫婦の妻となっており、今現在では、こちらが定説となっているようです。
ただ、分からないことも多くて、そもそも「小万」は、「こまん」なのか「おまん」なのか。
女性だから「おまん」さんだろうという気もしますが、三重県の亀山市に伝わる昔話には「小万(こまん)」さんという女性が出てきます。
高崎の歴史本にも明確に仮名を振ってあるものはありません。
明治三十年(1897)発行の「髙嵜繁昌記」に付いている「和田古城之図」でも、「小まん坂」と逃げています。
もうひとつは、たまたま行き倒れた旅人のために、地蔵堂まで建てて供養するだろうかという疑問です。
「小万」さんが余程の別嬪さんだったのか、あるいは病んで長逗留する間に村人に慕われるようにでもなったのか。
よしんばそうだったとしても、せいぜい塚に墓石か、路傍の石地蔵がいいところで、堂宇まで建てるとは。
それに、女性を供養するなら観音様にでもしそうなものを、お地蔵様とは・・・。
で、ここからは、いつもながら迷道院の根拠なき推論です。
そのつもりでお読み頂きたい。
昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に、「和田宿古繪圖」というのが添付されています。
「髙嵜繁昌記」の「和田古城之図」とほとんど同じなのですが、これには「小万坂」という記載はなく、「此邊大おん久保ト云」(この辺 大おん窪と云う)とか、「此辺ニ大音寺ト云フ寺有 之今ハ名斗帳面ニ有」(この辺に大音寺と云う寺有り これ今は名ばかり帳面に有り)と書かれています。
大正十三年(1924)の「髙崎市全圖」では、「大音寺通」と表記されており、道は烏川の縁で止まっています。
「鎌倉小路三号」というのが「小万坂」です。
どうやらこの付近には、いつの頃か「大音寺」というお寺があったようです。
思うに、「小万地蔵堂」はそのお寺の地蔵堂ではなかったかと。
Wikipediaによると、
「 | 地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。 サンスクリット語ではクシティ・ガルバと言う。 「クシティ」は「大地」、「ガルバ」は「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。(略) |
日本における民間信仰では、道祖神としての性格を持つと共に、子供の守り神として信じられている。」 |
折しも今月15日は「七五三」ですが、三歳・五歳・七歳は子どもの厄年なんだそうで、その厄を落とす儀式なんだとか。
また、七歳までは神様からお預かりした子で、いつ神様にお返しすることになるかも分からない、七歳を無事に越すことができて初めて人間の子となるのだ、とも聞いたことがあります。
それほどに、昔は、小さな子どもが育たずに亡くなってしまったということなのでしょう。
流産などによる水子も今より多かったことでしょうし、場合によっては間引きなどにあう不憫な嬰児もあったことでしょう。
そのような不幸な子どもの亡骸が、この坂道を下って「大音寺」に葬られたのではないでしょうか。
もしかすると、ひっそりと烏川に流された亡骸だってあるかも知れません。
してみると、「小万」の「小」は「こども」の「小」、「万」は「数多くの」あるいは「すべての」という意味と考えられないでしょうか。
「小万地蔵」は、「数多くの小さな御霊」を供養し、「数多くの子どもたち」の無事生育を願うお地蔵様だったのではないか、と私は思うのですが、いかがでしょうか。
そう考えて、私は「こまんじぞう」「こまんざか」と呼ぶことにしたいと思います。
「隠居の思ひつ記」は、またしばらくお休みさせて頂きます。