2016年08月14日

史跡看板散歩-13 高崎電気館(その2)

山崎正がやっていたという「幌馬車書房」がどこにあったのか、どうしても知りたくて調べを続けました。

いろいろ調べていく内に、山崎正「幌馬車詩人社」という同人会に所属していたことが分かってきました。
もしかすると、「幌馬車書房」「幌馬車詩人社」の誤りなのではないか、と思うようになりました。
「書房」というので「書店」「本屋」をイメージしていましたが、同人会の事務所だったのかも知れません。
であれば、近くの人が知らないというのも肯けます。

さらに調べていくと、その同人誌「幌馬車」が、高崎図書館の書庫に三冊ほど所蔵されていることが分かりました。


昭和十二年(1937)発行のものを見ると、「幌馬車詩人社」の住所は「高崎市江木町二三七(高槻方)」とあり、残念ながら柳川町ではありません。
ということは、山崎正が主宰していた同人会ではないということで、ちょっと落胆しました。
しかし巻末の「消息」欄に次のような記述を見つけ、ささやかな喜びを味わうことはできました。
山崎正
九月二十日以來北支戰線に奮闘中、二十六日病得て○○野戦病院に入院、十月四日更に○○陸軍病院に轉院、砲煙彈雨の中に在りても猶詩作を忘れず、身を以て書いた作品數十篇を歌謡集『漁火』として近日出版の由。」

さらに迷道院を欣喜させたのは、昭和二十一年(1946)発行の「幌馬車」誌でした。
消息
山崎正氏
同氏經營の『幌馬車書房』は九月中旬高崎市柳川町三二番地に移轉、『日本作歌者協會』員に推薦さる。」

やはり、「幌馬車書房」でよかったんです。(後で、古書店であったことが判明します。)
しかも、番地まで書いてあるじゃありませんか。
さらに驚くことに、その番地は、前に教えて頂いた、山崎正の両親が住んでいたという場所だったんです。


史跡看板に書いてある通り、たしかに「電気館の側」でした。

ここで気になったのは、山崎正「粋な黒塀」の所からここへ引っ越したのかということなんですが、同誌の「編輯部員住所錄」を見ると「高崎市柳川町一 松浦方 山崎正」となっているので、32番地はあくまで「幌馬車書房」として使っていて、住んでいたのは1番地、しかもそこは借家だったということも分かりました。

最後に、取材で得たお話を一つ。
あの黒塀の家にはね、ほんとにお富さんという女性が住んでたのよ。見越しの松もあって。
この辺は、ほら、花柳界でしょ。
お富さんもそういう女性だから、ほんとに洗い髪できれいだったの。
だから「お富さん」の歌が出た時、あぁ、ここのことを歌にしたのねって、この辺の人はみんな言ってたの。
お富さんの歳?そうねぇ、50歳くらいだったかねぇ。
でも、借金してね、大変だったみたい。
独り暮らしだったから、亡くなって一週間くらいしてから見つかったのよ。」

お富さんが住んでいたという、黒塀に見越しの松があった家は、現在コイン駐車場になっています。


「お富さん」が発表され大ヒットしたのは、昭和二十九年(1954)のことでした。
「電気館」での歌謡ショーの後に、山崎正の家で撮った写真が残っています。


時はまさに「戦後復興期」から「経済成長期」に入り、人々の娯楽文化が一気に花開く時でありました。

ここに、山崎正の略歴をご紹介しておきましょう。
(参考資料:前橋文学館発行「山崎正・歌謡曲の世界」)

大正五年(1916)東京亀戸に生まれる。本名・松浦正典。
母の再婚により高崎に移住。
高崎中学(現高崎高校)卒業後、東京美術学校入学。
この頃から作詞にも関心を持ち始め、高橋掬太郎の門下生となる。
昭和11年(1936)歌謡同人誌「幌馬車」の同人となる。
昭和12年(1937)高崎歩兵十五連隊に入隊。
昭和13年(1938)満州チチハル陸軍病院から歌謡集「踊る支那兵」を、見舞いに来た民間人に秘かに託し、内地に投函する。
帰還後、慰問文が縁で前橋の料亭「鳥辰」の長女・ふみ子と結婚。
昭和16年(1942)作詞した「暁の門出」「茶作り次郎長」「軍歌千里」の三曲が、近藤広の作曲でレコード発売。
長男・正幸誕生。
昭和17年(1942)次男・薫(現つくし店主)誕生。
昭和19年(1944)再び招集。東部三八部隊に陸軍兵長として入隊。
三男・義明誕生。
昭和21年(1946)高崎市柳川町に古書店「幌馬車書房」を開店。
昭和22年(1947)自由作詞家連盟の同人誌「歌謡街」を創刊。
昭和26年(1951)単身上京、文化放送に所属。ラジオのコマーシャルソングなどを手掛ける。
個人誌「河童」創刊。
昭和28年(1953)「お富さん」を仕上げたのち、住居を前橋に移す。
昭和29年(1954)渡久地政信作曲で「お富さん」発売。
昭和30年(1955)高崎電気館を借り切り、「お富さん祭り」を開催。
昭和31年(1956)「前橋音頭」作詞。
昭和34年(1959)前橋市石川町に「山崎歌謡教室」を開設。
昭和37年(1962)「太田囃子」「伊勢崎囃子」作詞。
昭和39年(1964)社団法人日本作詞家協会理事に就任。
昭和43年(1968)山崎正永眠。享年52歳。
  

【高崎電気館】


【幌馬車書房があった所】


【お富さんが住んでいた所】


【山崎正が住んでいた所】






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この記事へのコメント
小学校の頃
「お富さん」の春日一郎が母が好きで
機織りをしながら歌っていました。
歌の中に(死んだはずだよお富さん)がありました。

訳も知らず小学校で歌たら先生に
私の母は(冨江)で先生に
自分の親を殺すのか!
叱られたのが思い出します。
Posted by wasada49  at 2016年08月18日 05:26
>wasada49さん

お母さんが「お富さん」でしたか。
それは誤解される歌詞でしたね。

私も子どもの頃、ラジオからいつも「お富さん」が流れていたのを思い出します。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2016年08月18日 06:54
8月18日高崎演劇鑑賞会の演目は文化座の「千羽鶴」でした。最初の場面で「お富さん」が歌われました。時代背景を表わすためでしたが、この歌が柳川町で作られたことを役者さんたちに伝えたいと思いましたが叶いませんでした。
山崎さんの高校の同窓生は150人です。今年100歳になりますが、健在で住所の分かる方は7名です。(2012年の名簿)
Posted by いちじん  at 2016年08月21日 02:09
>いちじんさん

ほー、時代背景を表わす歌として使われてるんですね。
すごい遺産を遺してくれたんですね。
伝え続けないと勿体ないです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2016年08月21日 09:44
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