「高崎中学校跡」の史跡看板から西へ、直線距離で120mほどの所にあるのが、並榎町「神明宮」(しんめいぐう)の史跡看板です。
説明看板にある「榎本於明神」というのは、たぶん「榎本於神明神」で、「神」の字が一つ抜けてしまったのだと思います。
「えのもと・おかみ・みょうじん」と読むのでしょう。
境内にある「神明宮由緒」の看板では、こうなっています。
どちらの看板にも書かれているのが、明応三年(1494)に始まったとされる「獅子舞」です。
「並榎町の獅子舞の流派は黒熊流だったが、明治の初めに稲荷流に変わり現在に至っている。そのせいか、並榎の獅子舞は足を踏みつける半閇(へんばい)の動作が強く、力強い踊りが特徴」
だそうです。(群馬県教育文化事業団「ぐんま地域文化マップ」)
では、その「獅子舞」を動画でご覧ください。
また、史跡看板には、「狛犬の台座に村上鬼城揮毫の並榎橋の親柱が使われている」とあります。
これがそうです。
橋の親柱ですからあと二本ある訳ですが、それはここから北北東400m、長野堰沿いの新「並榎橋」のところに残っています。
この親柱を使った「並榎橋」が竣工したのは昭和六年(1931)、長野堰の改修に伴い橋が架け替えられたのは昭和五十一年(1976)、使われなくなった親柱を台座に使って「神明宮」の狛犬が奉納されたのが昭和五十二年(1977)でした。
長野堰のほとりに残した二本の親柱も、目立たない場所ではありますが、よく残してもらえました。
欲を言えば、ここにも「名所旧跡看板」を立ててほしかったものです。
「神明宮」境内には、鬼城句碑もあります。
平成二十二年(2010)建立の、まだ新しいものですが。
並榎町には、村上鬼城の居宅「鬼城草庵」があることから、その縁が深いのです。
「鬼城草庵」の事をブログに書いたのは、もう7年も前。
駆け出しの頃の記事ですが、よかったらご覧ください。
◇「崖の上の鬼城先生」
はい、今日はここまで。
説明看板にある「榎本於明神」というのは、たぶん「榎本於神明神」で、「神」の字が一つ抜けてしまったのだと思います。
「えのもと・おかみ・みょうじん」と読むのでしょう。
境内にある「神明宮由緒」の看板では、こうなっています。
どちらの看板にも書かれているのが、明応三年(1494)に始まったとされる「獅子舞」です。
「並榎町の獅子舞の流派は黒熊流だったが、明治の初めに稲荷流に変わり現在に至っている。そのせいか、並榎の獅子舞は足を踏みつける半閇(へんばい)の動作が強く、力強い踊りが特徴」
だそうです。(群馬県教育文化事業団「ぐんま地域文化マップ」)
では、その「獅子舞」を動画でご覧ください。
(高崎市の動画を一部編集させて頂きました。)
また、史跡看板には、「狛犬の台座に村上鬼城揮毫の並榎橋の親柱が使われている」とあります。
これがそうです。
橋の親柱ですからあと二本ある訳ですが、それはここから北北東400m、長野堰沿いの新「並榎橋」のところに残っています。
この親柱を使った「並榎橋」が竣工したのは昭和六年(1931)、長野堰の改修に伴い橋が架け替えられたのは昭和五十一年(1976)、使われなくなった親柱を台座に使って「神明宮」の狛犬が奉納されたのが昭和五十二年(1977)でした。
長野堰のほとりに残した二本の親柱も、目立たない場所ではありますが、よく残してもらえました。
欲を言えば、ここにも「名所旧跡看板」を立ててほしかったものです。
「神明宮」境内には、鬼城句碑もあります。
平成二十二年(2010)建立の、まだ新しいものですが。
「大雨に 獅子をふりこむ 祭可南(かな)」 鬼城
並榎町には、村上鬼城の居宅「鬼城草庵」があることから、その縁が深いのです。
「鬼城草庵」の事をブログに書いたのは、もう7年も前。
駆け出しの頃の記事ですが、よかったらご覧ください。
◇「崖の上の鬼城先生」
はい、今日はここまで。
【神明宮】
【並榎橋】
【鬼城草庵】